僕は全力をだすわけにはいかないんです!だって...
はじめに
前回は、自分の武装解除に最初に気づかされたエピソードを紹介した。
沢山ある自分の無自覚な武装に気づいて、
解除していく様子をどんどん書いていこうと考えていたのだけど、
なかなか筆が進まない、うーむ。
今回は、自分で突然気づいてしまった、
無自覚な武装のエピソードを紹介してみることにする。
コロナ明け最初のハーフマラソン大会にて
昨年の12月に、地元(愛媛県松山市)のハーフマラソン大会があった。
コロナ禍でしばらくマラソン大会は開催されておらず、
久しぶりの大会だった。
ハードな練習もそれほどしていなかったので、
ベストタイムは望めないとは思ってはいたが、
久しぶりに参加するので楽しみにしていた。
ハーフマラソンは、2時間もかからずにレースは終わるし、
補給食や水などの荷物も不要。
地元の川沿いを走るだけなので景色も代わり映えしないため、
身体1つで走りに行けばいいはずだった。
しかしなぜか「スマホを持っていかなきゃ」という衝動に駆られていて、
結局ポーチをつけてスマホを持って出走することになった。
ランニング用のポーチとスマホは、それほどの荷物ではないが、
ハーフマラソンのように高速ペースで走るのにはやはり邪魔だ。
しかし、預けた荷物を取りに行く前に使えるし、などの理由を作って
出走中も携帯することにした。
走り始めてからしばらくは、
沿道の声援、エイドのボランティアの方々、などなど
久しぶりのレースの雰囲気を楽しみ、
関わってくれている人に感謝しながら走っていた。
しかし、久しぶりの高速ペースで走っていたため、
だんだんペースが落ちてきた。
足が動かなくなり、呼吸もきつくなってきた。
ある意味、ランナーズハイ状態になって走っている最中に突然、
なぜ必要もないスマホを携帯しているのかに気づいた。
それは、言い訳のため、だった。
より正確に表現するなら、
うまく行かなかったときの言い訳を作るために、
無意識に余計なことをしていた
ということだ。
これだけ聞くと、読者の方にとっては、
かなりちんぷんかんぷんだと思う。
次に思い出した過去のエピソードをご紹介する。
頑張ったのに報われなかった痛みの記憶
小学校6年生の時、市の陸上大会の幅跳びの選手に選ばれた。
練習ではそこそこの記録を出し、自分としても手応えはあった。
自分の他に仲の良いクラスメイト二人が、
幅跳び選手としてエントリーしていた。
そして迎えた本番、自分はこともあろうか、
緊張して踏み切り板を踏んでしまい、
すべてファール記録なしという結果だった。
これだけでもかなりショックだったのだが、
追い打ちをかけたのは、
クラスメイトが二人共表彰台に立ったということだ。
今でも、卒業アルバムに掲載されていた
二人の幅跳びのジャンプ中の写真のポーズが思い出せる。
一緒にでた友だちが共に表彰台で表彰され、
自分だけ記録なし。
この天国と地獄のようなギャップが、
当時の自分にとって物凄く痛かったのだろう。
その時、自分がどんな感情だったのかは記憶にはない。
あまりにつらすぎて記憶から消してしまったのかもしれない。
しかし、今当時の状況を思い返し、感じてみると…
「二人は表彰台に立てたのに、自分だけ惨めだ….」
「記録がよい・悪い以前に、記録なしなんて恥ずかしい…」
「自分自身に絶望した…」
という感情が浮かんできた。
結果がでなかった悲しみ、悔しさを通り越し、
惨め、屈辱、絶望感という、より低レベルの感情が出てきた
(感情のレベルは『パワーかフォースか』の意識レベルのこと。詳しくは本を読むかこちらを参照)
このことが、自分にとって本当にショックだったのだろう。
40年近く前のことになるが、
今でもこの出来事と友だちのジャンプの写真が強烈に印象に残っている。
痛みを回避するための無自覚な回避行動
本気を出して失敗するのが嫌だ
自分が自分に失望したくない
他者と比べて惨めだ
このようなつらい状況を打破するために、無意識に編み出した戦略が、
「そうだ!失敗した時の言い訳を作っておこう」
だったのだ。
うまく行かなかった時に痛みを回避するために、
無意識に失敗した時の理由を作っていたのだという事に気がついた。
「〜だったから結果が出なくて仕方ない」
と自分を納得させることで痛みを緩和している。
その痛みの緩和の代償として全力を出せないを無自覚時行っている。
言いかえれば、
走りながら、このことに気がついて、あまりの衝撃に途中で立ち止まり、レースをやめようと思ったほどだった。(結局完走したけど)
無意識の発動条件を見極める
思えば、社会人になってからも、
全力で頑張ったのに結果がでなかったことがある。
逆に、全力を出して結果が出たこともある。
毎回、全力を出さないようにしているわけではなさそうだ。
無意識に言い訳をつくる時には、
自分の中に不安がある時だという条件がありそうだ、
ということに気がついた。
今回のレースの時は練習が足りてないという不安だった。
新しい事業を始める時は、このアイデアが人に届くのだろうか
という不安があるときにも発動している。
一方、こういう無意識の回避行動が発動しない時もある。
それは自分が心から楽しみ、ワクワクしている時だ。
不安・恐れの意識から行動するのと、
歓び・楽しみの意識から行動することの違いが、
その後の結果を変えているという点に気づいた。
由佐美加子さんは、このことを、
分離の意識と、源の意識の違いと呼んでいる。
(この点についてはまた別の記事で詳細に説明したい。)
どんな感情も味わえばいい
この無意識の回避行動の根っこの痛みは、
結果を出せなかった自分への失望や嫌悪感だった。
それを回避したいがために、
全力を出せなかった時の言い訳を作ることで、
全力を出さないことになり、
結局、結果が出せなくなり、自分で自分を慰める。
これでは自作自演もいいところだ。
これを回避するために、自分が必要なことは、
事前の不安を「不安なんだね」とあるがまま認めてあげること、
無意識に余計なことをしていることに自覚的になること
全力を尽くして、どんな結果になっても感情を味わおうという覚悟
この3つだということに気がついた。
事前に感じる不安は、無理になくそうとするのでなく、
「自分は結果が出るかどうか不安だなぁ」と感じてあげる。
あるものをあると認めてあげる。
それでも無意識に余計なことをしでかそうとしていることに
自覚的になり待ったをかける。
結果に伴う感情は、嬉しさ、歓び、悲しみ、悔しさ、恥、嫌悪、
様々なものがあるかもしれない。
どんな結果になろうともその感情を味わい尽くそうとする。
痛みを回避するために、全力出さないなんてあまりに残念すぎる。
うまくいかなかったら失望感を味わえばいい、がっかりすればいい。
充分に味わってから、次に向かえばいい。
そう生きようと決めた。