宮本常一が教えてくれたDASH島の歴史
先日、仕事で訪れた周防大島にて宮本常一記念館に寄った時に、『宮本常一写真図録 第1集 瀬戸内海の島と町ー広島・周防・松山付近』という写真集をみつけた。
松山や、忽那諸島も掲載されていたので、興味を持ち購入してみた。
そこに、DASH島こと、由利島についてのページもあった。
この本によると、宮本氏が1959年に由利島を訪れた時には、まだ10戸ほどの家があり人が暮らしていたそうだ。由利島は、二神島に住んでいる者が貧しくなると由利島に夫婦で移り住み、野菜を作り、生計を立てて借金を返済して由利島に帰る、という目的の島だったらしい。「二神島本島よりも土が肥えていて、野菜の出来がよい」ということは、正直驚きだ。
少し調べてみると、『「忘れられた日本人」の舞台を旅する —宮本常一の軌跡』の著者の木村哲也さんが、「宮本常一伝ノート」というサイトに、宮本氏が訪れた場所を自分で訪れた記録を公開されており、二神島・由利島についてにも触れていたので読んでみた。
由利千軒の伝説
どうも、由利島は以前は多くの人が住んでいたが、地震で小さくなり、人が姿を消したそうだ。
以下のサイトによると、古三津の儀光寺に伝説が残っており、由利島との縁があるそうだ。網野善彦氏も次のように書いているという。
困窮島としての由利島
由利島への二神島からの移住については、以下のような記載があった。
「TOKIOが無人島を開拓」という触れ込みでDASH島のプロジェクトをやっているが、実は由利島は作物栽培に向いていて案外いい線行ってるのではないかという気がしてきた。
二神島は協働精神を秘めた島
もう一つ、写真図録で気になった箇所があった。それは二神島の解説の部分だ。図説には以下のような解説があった。
少し二神島を調べてみると、『ナショナル・ジオグラフィック』にも特集されたほど、昔ながらの面影を残した場所のようだ。
二神島の協働精神について、そして昔ながらの面影という点について、今後も調べてみたいし、一度二神島に行きたくなった。
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元々、宮本常一氏が好きで、以前から著作を読んでいたのだが、ひょんな事で数年前に妻の実家の松山に移住した。松山から宮本氏の故郷である周防大島は船で1時間で行ける場所であり、しかも宮本氏が瀬戸内海の調査を多数していた、ということに今更ながらに気づいたのでした。
著作を今一度確認し、松山を含めた愛媛、四国、瀬戸内海についての記述を度読み直してみたい。