偶からはじまる物語~授業「風の歌を聴け」~
完璧な文章などといったものは存在しない。
完璧な絶望が存在しないようにね。
惚れ惚れする書き出しだった。
僕が,村上春樹を正式に読み始めたのは,この本を大学時代の友達に借りた時だったっけ。
授業中の子ども達の姿から,この題名と書き出しの一節を思い出すなんて。
図画工作科の単元に「動きをとらえて形を見つけて」というものがあった。
自然の中の動きや形から,その特徴を生かした表現をするというもの。
見えないものが見え,聞こえない声が聞こえるものこそ人間らしい
僕は,人には見えないものが,自分には見えるということは,誰にでも当たり前のように起きうると思っている。
人には聞こえない声が,自分には聞こえるということもまた,誰にでも当たり前のように起きうると思っている。
起きうるじゃない,常に起きていると思っている。
別に,心霊的な話をしたいわけではなくて…
物事を知覚したり,認識したりする際に生まれる,内言や心象には,人それぞれに違いや個性がある。
それが,人間らしい存在だと思うのだ。
たまにスーパーとかで,"見えない敵"と「ドリャー!」って戦っている姿を見かけると,応援したくなる。
学校と言う場所は,人生をつまらなくすることに熱心だと見て取れる。
一方で,学校と言う場所は,物事の知覚や認識のずれをできる限り少なくし,画一化することに熱心だと見て取れる。
もちろん,それが必要な学問も有るだろうけれど,全ての教科がそうなってしまったら,人間はひどくつまらないものになると思う。
だから,こういう"捉えどころのない学習単元"が,最近けっこう好きなのだ。
昔は,やりずらいなぁって感じていたけれど。
聞こえない,見えないと思っているのは大人だけなのかもしれない
まずは,教室で授業の概要を説明する。
そして,芸術家のメガネをかけて「芸術家スイッチオン!」とみんなで宣言する。
なんと,このメガネをかけると,自然が発する信号を受け取ることができるというもの!…もちろん,メガネは実在するものではない。
でも,実際にメガネをかける"フリ"をして,芸術家になりきることで,"見えちゃう"のだ。(試しにやってみてほしい)
子ども達の,そして何より僕自身の,覚悟が決まる。
だから,外に出た時には,既に芸術家としてたくさんの声が聞こえるようになっているのだ。
事実,子どもは驚くほどにたくさんの声を聴き,風景を描いていた。
「ねぇ,この下,別世界への入口みたい!」
「こんな石あったっけ?これ,何のためにあるんだろう。」
「すごいの見つけたね!なんか書いてあるよ。」
「こうやって見ると,なんか不思議だね。」
「あれ?ここって,もしかして!別世界への通り道?」
なんて,妄想を広げまくっている。
敷地内を一周したら,自然の中から"物語"が見つかったかを聞いてみた。
すると,全員が「もう見つかった!」とのことで,なんか興奮している。笑
難しい子がいたら,相談タイムをしようかと思ったんだけれど,その必要もなさそう。
ということで,ものづくりスタート!
この子は,校舎裏でひっそりと枯れている紫陽花の信号を受け取った。
寂しいから,枝に,光の花を咲かせるのだそう。
カラーセロハンと,スズランテープを使って,一つ一つ丁寧に花を咲かせていた。
この子は,雨どいがつまり,そこからあふれ出た雨がつくった水たまり跡の信号を受け取った。
上着は,石を運ぶ道具に早変わり。
もう,没頭している。
できた作品は,「雨の巨人の足跡」だそうだ。
「何で4本指なの?」と聞くと,
「全身を想像すると,4本指っぽい怪物になったから…」
って,ちゃんと想像を広げている。
思わず「うぅん。」と感嘆の声を漏らす僕であった。
この子は,外に放置され,端が朽ちている平均台の信号を受け取った。
朽ちた崖が,崖のようになっていて,そこに光の滝をつくるのだそうだ。
始終悩んでいて,作品の完成にはいたらなかったのだけれど,
「先生。これ,空とつなぎたいんですけど…」
とスズランテープを持って相談されたときは,見つめ合うことしかできなかった。
この子は,駐車場の端にある切り株の信号を受け取る。
ちょうど,桜の時期だったので「この切り株が昔を懐かしんで花を咲かせたがっているから…」みたいなことを話していた。
優しさがにじみ出ている。笑
彼にとっては,切り株のために,もう花を咲かせなきゃいけなくなってしまったようだ。
野良に咲いている花々(草刈り後の雑草を集めておくところに,チューリップまであった)を集めてきて,花を咲かせた。
さらに,セミの抜け殻まで見つけて,
「これで,夏と春の,2つの季節を季節を味わえる!」
なんて発見していた。
もちろん,お互いの作品を見合ったら,まずはみんな「何これ!?」から始まる。
「クレイジー!」って言われて,言われた子も満足そう。
僕も「変だねぇ~」って言葉を使っちゃうんだけれど,うちのクラスにおいては褒め言葉なのだ。
よく遊び,よく学ぶのだ
僕はこうした授業をする一方で,正解を設けて,発想の広がりや可能性を抑えるような授業もしている。
その原因には,いろんな要素や制約があるけれど,そこにこれからの僕の挑戦が有ると思っている。
子ども達が持っている発想の豊かさを保ちながら,「好奇心に知識が巻き付くような学び」(引用元:市川力)を,地道に作っていきたい。
確かに,自分だけの世界に閉じ,自分なりの世界観に依存し,社会との接点が築けないのは苦しい。
でも,正しさで凝り固まってしまう大人もまた,苦しい。
何より自分自身が今,その苦しみを感じているからよく分かる。
妄想力と,外部環境への鋭敏な感度を持つ子ども性。
論理性と,実装へのロードマップを描ける大人性。
その両立のために,今日も明日もよく遊び,よく学んでいきたいと思う。