rabbit
もう遠い昔の話になる。小学五年生の夏が終わる頃、同級生に三上霧という子が転入してきた。
母親と二人で私の住む町に越してきた霧は、空色のブラウスやふんわりしたスカートが良く似合う、綺麗な長い髪をした、男の子だった。ごくありふれた田舎に突如紛れ込んだ霧の存在はあまりにも異質で、あっという間に広まった根も葉もない噂話は霧とその母親を完全に孤立させた。学校でも霧はいつも一人でぽつんと自分の席に座っていて、それでも誰も霧に声を掛ける勇気はなかったのだと思う。ガラスケースに収められた劇薬を遠くから眺めるように、私達は決して霧に近寄ろうとはしなかった。
大した関わりも無いまま時間が経ち、冬休みが終わった後に私は三学期の係決めで霧と一緒に飼育係になった。飼育係の仕事は校庭の隅にあるうさぎ小屋の掃除とうさぎの世話で、面倒なので誰もやりたがらない。私はじゃんけんで負け続けて最後に余りを押し付けられた形だったけれど、霧は最初から飼育係に立候補していた。黒板に書かれた二人分の名前に、嫌だな、と思ったのを今でもよく覚えている。
いざ当番の日が回ってきて、私はのそのそと重い足取りでうさぎ小屋に向かった。雪がちらつく放課後の校庭はしんと寒く、吐く息は白く揺れてすぐに消える。私が小屋に着く頃には、霧は既に小屋の中に入って掃除と餌の補充を終え、しゃがみこんでじっと何かを見つめていた。長い髪の隙間から覗く耳が寒さで赤く染まっていた。
ぼんやりと立ちすくんでいる私の姿を見つけて、霧はちょっと意外なほど明るい微笑みを浮かべておいで、と私を手招きした。招かれるままに足を踏み入れたうさぎ小屋は濃い草と獣の匂いがしてほんのりと暖かく、しゃがみこんだ霧の腕の中には、心地良さそうに目を閉じて撫でられている一羽の真っ白なうさぎがいた。
「……うさぎ、好きなの」
私が尋ねると、霧は幸せそうに微笑んでうん、と素直に頷いた。ほとんど初めて聞く霧の声は思いのほかきちんと低く、けれど同級生の男の子達のそれよりはずっと澄んだ響きを持っていた。
「花穂ちゃんも抱っこしてみる?」
霧がそう言って当たり前のように私の方を見たので、私は霧がきちんと自分の名前を知っていたことに少しだけ動揺した。何を言えばいいか分からず咄嗟にうん、と頷くと、霧はそっと近付いてきて私にしゃがむように促した。
「最初はやさしく撫でてあげて。大丈夫そうだったらそのまま抱っこして、おしりの方を支えてあげて」
丁寧に指示を出しながら、霧は自分の腕の中から私の腕の中へそっとうさぎを移した。うさぎはどうやら眠っているらしく、私に抱かれてもぴくりとも動かない。指先に熱くて柔らかい塊が触れたのを感じた瞬間、愛おしさと恐怖で身動きが取れなくなった。私の腕の中で、真っ白なうさぎは幸福そうに寝息を立てていた。
「上手、上手」
うさぎを抱いたまま動けない私の隣で、霧がそう言って目を嬉しそうに細めたのが声色で伝わる。しばらく経つとうさぎはもぞもぞと動き出し、目覚めると同時に私の腕の中から飛び出していった。ぬくもりだけが、私の手のひらにはっきりと残されていた。
「……花穂ちゃん、来てくれないと思ってた」
うさぎの余熱に呆然としている私に向かって、霧は思い出したようにぽつりとそう呟いた。え、と思わず声を漏らすと、だって飼育係嫌そうだったから、と先程までの余裕が嘘のように霧はぼそぼそと続ける。まさか飼育係じゃなくて霧と一緒なのが嫌だった、と本人に言えるわけもなく黙っていると、霧はぎこちない笑みを浮かべた。
「だから、来てくれて嬉しかった。ありがとう」
その日はそのまま別れたものの、その日を境に、私は時折うさぎ小屋で霧と話すようになった。当番の仕事が割り当てられている火曜日と木曜日の放課後、霧は必ずうさぎ小屋にいて、きちんと飼育係としての仕事を全うしていた。
いざ直接言葉を交わしてみれば、霧はどこにでもいる普通の子だった。相変わらず身にまとっている服は女の子のものだったけれど、皆が噂しているようなおかしなところはひとつも無い。本当にうさぎが好きで、私にはさっぱりだった六羽のうさぎの区別もきちんとついていた。初めて会った日に抱っこしていた、ミミという名前の大人しいうさぎが霧のお気に入りだった。
「うさぎは寂しいと死んじゃうんだって」
そんな嘘か本当か分からないことを言いながら、霧はいつも愛おしそうにうさぎを眺めていた。整った霧の横顔を見ていた私の口から、その時何の気なしにぽろり、と言葉が零れ落ちた。
「霧は、女の子になりたいの」
口にしてから自分でその言葉にびっくりして、私は思わずばっと両手で自分の口を塞いだ。霧は意外なほど落ち着いた声で、そしてあまりにも迷いなくううん、と首を振った。伏せた長い睫毛の奥に、今まで見たことのない暗い翳りがあった。
「家に、男の子の服は無いから」
霧には、霧が産まれる前に亡くなった姉がいた。姉と入れ替わるように産まれた霧を、母親はそれはそれは溺愛したらしい。息子ではなく、娘として。一人の人間ではなく、姉の代わりとして。喪失から目を背けて、霧の人生を姉の人生と重ね合わせ、歪ませながら、今日までずっと。
父親は母親の狂気に耐え切れなくなって家を出ていった。母親と霧だけが残された家で、霧は少女として生きることを強いられ続けた。
「……本当は、ずっと」
私に話しながら、霧は泣いていた。まだ十年そこらしか生きていない霧は、狂ってしまった母親の為にずっと自我を殺してきたのだろう。本当はピアノじゃなくてサッカーがしてみたかった、本当はワンピースじゃなくてズボンが良かった、本当は甘いものなんて好きじゃなかった、本当はお母さんに「霧」って名前で呼んで欲しかった。泣きじゃくりながら吐き出される言葉に、私は何も言えなかった。背中に落ちた霧の涙に驚いたうさぎが、身をよじらせて霧の腕の中から逃げた。
しばらく霧が泣き止むのを待って、私達は二人で教室へ戻った。隣に並んだ霧の身長が初めて会った時よりも伸びていることに気付いたけれど、確か私は結局最後まで何も言えなかったと思う。霧の背負ったランドセルの淡いパステルブルーが、どうしようもなく苦しかった。
その翌日から霧はしばらく学校を休んだ。私は霧がいない日もきちんとうさぎ小屋へ向かったけれど、木曜日にふと一羽のうさぎの様子がおかしいことに気がついた。ご飯を差し出しても食べようとせず、小屋の隅でぐったりと蹲っている。名前は分からなかったけれど、その真っ白なうさぎは、なんとなく霧のお気に入りのミミに似ている気がした。
先生に伝えに行くと、先生はあっさりと寿命なのかもしれないね、と告げた。一番長く生きているうさぎだったから、そろそろ死んじゃうのかもしれない。最後まできちんとお世話してあげてね。
あまりの惨さに叫び出しそうになりながら、私は職員室を出てうさぎ小屋に駆け戻った。ミミ、と震える声で名前を呼んでみたけれど、弱っているらしいうさぎは動かない。下校時刻が来て警備員さんに注意されるまで、私はうさぎ小屋の中で一人蹲っていた。
結局その週、金曜日まで霧は来なかった。不安まみれの土日を過ごして、私は月曜日の朝にいつもよりもだいぶ早く家を出た。二月も既に終わりが近付いていて、暗い外には雪混じりの冷たい雨がぐしょぐしょと降っていた。
教室に飛び込んで、私はすぐに霧の名前を呼んだ。自分の席に座っていた霧は、驚いたように私の顔を見る。数人のクラスメイトも驚いたように私の方を見ていて、そういえば誰かがいる前で霧の名前を呼ぶのは初めてだったな、と私はぼんやりと頭の片隅で考えた。
「来て」
それだけ告げて霧の手を引いて駆け出すと、霧はすぐに私がどこに向かおうとしているのか気付いたようだった。傘もささずに二人でうさぎ小屋に飛び込むと、小屋の真ん中に小さく丸まっている真っ白い塊が目に入る。ああ、と声にならない呻き声が漏れた。間に合わなかった。
霧はゆっくりとうさぎに近寄ってそっとその身体を抱き上げたけれど、力の抜けたうさぎの身体は霧に持ち上げられてぐにゃりと伸び切ってしまった。小屋の入口に立ち竦んでぼろぼろと涙を零す私の目の前で、霧の顔が大きく歪む。うああああ、と絞り出すように泣き声を上げた霧の声が明らかに低く掠れていて、それを耳にして私は何故かますます涙が止まらなくなった。
霧と私はひんやりと冷え切った朝のうさぎ小屋で、うさぎの亡骸を囲んで泣き続けた。霧の声はやはり低く、けれど初めて聞いた時の澄んだ響きはそのままだった。終わってしまった、全部全部終わってしまった、とわけも分からず思いながら、私はうさぎの死と霧の終わりを泣いた。しばらく経って二人とも泣き止んでから、私はミミのお墓が作りたい、と霧に伝えた。
二人でお墓の場所に選んだのは、うさぎ小屋から少し離れた場所に生えている椿の根元だった。冷えて湿った土を素手で深く掘り、私達はその穴にそっとうさぎの亡骸を横たえた。黒々とした土の中でうさぎは穏やかに眠っているように見えて、そのことが少しだけ私達を慰めた。
「待って」
うさぎに土を被せようとした私を止めて、霧はワンピースのポケットから小さな水色の鋏を取り出した。普段から図工の授業で使っている工作用の鋏だったけれど、それを握る霧の手はがたがたと震えていた。霧が何をしたいのかなんとなく分かって、私は何も言わずに霧の震える手からそっと鋏を受け取った。
「後ろ向いて」
素直に後ろを向いた霧の髪を一束手に取り、細くて柔らかなそれにゆっくりと丁寧に刃を入れる。しゃきん、と軽い音を立てて切り落とされたそれを、私はうさぎの亡骸を囲むようにそっと穴の中に落とした。俯いた霧の目が穴の中に落ちた自分の髪の毛をじっと見つめている。私が鋏を動かす度に、霧の髪の毛は不揃いに、それでも少しずつ短くなっていった。
霧の髪の毛がすっかり短くなったのを確かめて、私は霧に鋏を返した。霧は鋏を受け取って、困ったような顔で首がすーすーする、と笑った。霧の髪の毛に囲まれたうさぎを今度こそ埋めて、私と霧は冷え切った手を繋いで教室へ戻った。霧が低い声でありがとう、と告げたので、私はうん、と頷いてみせた。
それからのことはあまりよく覚えていない。泥まみれの手とざっくばらんに切られた頭で戻ってきた私と霧を見て、担任の先生は度肝を抜かれて私達を保健室へ連れていった。私と霧は保健室で温かいココアを飲みながら保健の先生に色々なことを聞かれたけれど、お互いに一言も喋らなかったらしい。勝手にうさぎを埋めたことだけはバレてしまって怒られたけれど、厚く降り積もった雪のおかげで、うさぎを埋めた場所は私達にもはっきりとは分からなくなっていた。
教室に戻ると、霧はわっとクラスメイトに取り囲まれてしまった。どうやらクラスの中では私が霧をいじめて髪を切ったことにされていたらしく、自分を心配するクラスメイトに向かって霧は大丈夫、とにっこりと笑ってみせた。花穂ちゃんは僕のお願い聞いてくれただけだから。ずっと髪切ってみたかったから。にこやかに笑う霧の声が低いことに、クラスメイト達も気付いたようだった。誰が言ったのか分からない「霧くんって呼んでもいい?」という問い掛けに、霧は心底嬉しそうにうん、と頷いた。
その翌日から霧は短い髪の毛で学校に来るようになった。霧の母親にどんな変化が起こったのかはついぞ知ることが出来なかったけれど、六年生に上がる頃には、少しずつ男の子の服を着ている霧の姿を見かけるようになっていたと思う。学年が変わると同時にクラスが離れて、私は給食係になり、霧とはそれきり卒業まで話さなかった。
直接話す機会こそ無かったけれど、霧はきっと最後まで私のことを忘れてはいなかった。校庭の隅の椿の根元には、いつ見ても小さな花が落ちていたのだ。霧は多分、私と一緒に作ったうさぎのお墓に毎日花を手向けていたのだろう。卒業するまで、椿の根元にはいつ見ても花が落ちていた。それを見る度に、私は霧の髪を切り落とした時の軽い感触と、初めて抱っこしたうさぎの熱さをまざまざと思い出した。花穂ちゃん、と名前を呼んだ霧の顔が、そのたびに頭の中にちらついた。
同窓会を終えて帰路についた私は、アルコールの回った頭でぼんやりと霧のことを思い返していた。同窓会名簿の欄に霧の名前を見つけて、出席に丸がついているのも確かめたはずなのに、私は霧の姿を最後まで見つけられなかった。きっと、霧はきちんと大人になれたのだろう。もしかするともう当時のことなんて覚えていないかもしれない。ネオンの光る視界がぼやけて、ようやく私は自分が泣いていることに気付いた。霧が最後にくれたありがとうの声が頭の中で木霊して、どうしようもなく悲しくて嬉しかった。
多分、私は二度と霧に会うことはないだろう。私の記憶の中で、あの頃の霧は柔らかな笑みを浮かべて、いつまでもうさぎの背を撫でている。霧、と小さく口に出した名前は、誰にも届かないまま夜の喧騒の中に消えていった。