バスの話

   バス、と言われて私の頭に思い浮かぶバスは三種類ある。ひとつは通学に使っている普通の市営バス、ひとつは小学生の頃通っていたスイミングスクールの送迎バス、もうひとつは遠征練習の時に乗る移動用のバス。

   市営バスに関しては、正直大した思い入れがないので今回は割愛。そもそも普段は自転車通学なので、市営バスにお世話になるのは通学路が凍ってしまう冬の間だけだったりする。赤の他人と一緒に同じ車に詰め込まれて運んでもらう感覚は別に嫌いじゃないけど、かと言って特別好きなわけでもない。中学の時に好きだった男の子とか近所の先輩とか乗ってこないかな〜と密かに期待はしているものの、今のところそのような奇跡も起こる気配はない。しょんぼり。

   というわけで、ここからは一番思い入れが深いスイミングスクールの送迎バスの話をしたい。スイミングスクールは隣町にあって、私は小学三年生の初めから小学校を卒業するまでの四年間、毎週水曜日にそこへ通っていた。途中からは小学校の同級生の男子二人と弟も同じバスに乗るようになって、後半はずっとその四人で喋っていたような気がする。

   スイミングスクールのバスは全部で八台近くあって、一台だけピンク色で他は全部白。車体には丸みがかった紺色のゴシック体でスイミングスクールの名前がでかでかと書かれ、走ると信じられないぐらいガタガタ揺れた。狭い車内にはいつでもプール独特の濃い塩素の匂いが充満していたのを覚えている。決して快適な空間では無かったはずなのに嫌な思い出が一切無いのは、私がバスの中で過ごすのが好きだったからに他ならない。日常的にバスに乗る機会の無かった当時の私にとって、水曜日の送迎バスは特別な非日常だった。

 送迎バスの最大の魅力は、同じバスに乗っている他の人達の存在だった。小さなバスにはそこまで大人数は乗っていなかったけれど、「塩の街」を読んでいた中学生のお姉さんも、歳下の生意気で可愛い兄妹も、バスの中で出会った人達が私はとても好きだった。今となっては顔も名前も思い出せないけれど、あの頃同じバスに乗って同じプールで泳いでいた人達が、今も世界のどこかに生きているであろうことを考えると不思議な気持ちになる。いつか読みたいと思っていた「塩の街」を読まないまま、あれからもう六年も経ってしまった。

 他にも、帰りのバスの中で食べるアイスやお菓子、酔いそうになりながら読む小説、こっそり持ってきた3DSでやっぱり酔いそうになりながら遊ぶ時間なんかも大好きだった。運転手は人の良さそうなおじさんで、走行中に立ち歩いたり騒いだりしない限り怒られることはなかったので、私は送迎バスの中でそれなりに自由を謳歌した。泳いで疲れた身体で食べるアイスは普段の三倍ぐらい美味しかったし、同級生や弟と3DSのアソビ大全で延々と勝負し続けたのも、今思い返せば信じられないくらい楽しかった。ボウリングとダーツとシーソーゲーム、すごろく、トランプくらいしかまともに遊べるゲームは無かったけれど、毎回僅差で盛り上がっていたような記憶がある。確かすれ違い通信もやっていた。懐かしすぎ。(ちなみにその同級生二人とは今でも微妙に交友関係がある)

 弟の好きな人をバラして殴られたことも、運転手さんに渡したくて握りしめていたら手の中でどろどろに溶けてしまったチロルチョコも、曇った窓越しに見る暗い夜の街と滲んだ信号機の光も、全部特別で大好きだった。そのスイミングスクールには年の離れた妹も通ったけれど、妹が数年前に辞めてしまってからはついに全く関わる機会が無くなってしまった。

 今でもスクール自体は健在のようで、自転車で帰っていてたまに送迎バスとすれ違ったりすると、その度に当時の記憶や塩素の匂いを思い出して胸がつんとしてしまう。小学生の頃の記憶で鮮明に覚えていることは多くないけれど、スイミングスクールとその送迎バスは私にとって忘れたくない思い出のひとつだ。

 思いのほか長く書いてしまったので、最後に遠征バスについて少しだけ書いて終わりにしたいと思う。遠征バスは習い事で市外の体育館を借りる時に乗るバスで、行きはめちゃくちゃに時間帯が早く、そして帰りは練習終わりで疲れ果てているので移動中は大抵皆寝ている。私も例に漏れずほとんどの移動で寝ているけれど、たまに途中でふっと目を覚ましたりすると周りの先輩や後輩がすやすや寝ていて、その寝顔を見るのはちょっぴりくすぐったい気分になった。

   遠征バスの特別感が最大になるのは大会の遠征で、夕方から夜にかけて五時間近く移動するので二十時を過ぎた頃にはバスの中の電気自体が消されてしまう。薄暗い車内で、スマホの小さな明かりで照らしながら貰った手紙を読んだり窓の外の知らない夜景を眺めたりしているうちに、いつも周りの人達は皆寝てしまった。その度に世界の終わりに取り残されたような悲しさとよく分からない愛おしさがごっちゃになって溢れて、私は静まり返ったバスの中でひとりセンチメンタルな気分に浸る。そのうちいつの間にか眠ってしまって、次に目を覚ます頃にはバスはいつも高速道路を降りて宿泊施設に到着していた。

    私の写真のフォルダに残っている先輩や後輩の寝顔は、そのほとんどが遠征バスの中で撮ったものだ。消した方がいいんだろうなとは思いつつ、そのあまりの愛おしさにずっと手放すことが出来ない自分もいる。他人の寝顔の愛おしさを知ったのは、多分遠征バスが最初だった。文章にするとあまりにも自分が変態じみているので、この部分はいずれ消すかもしれない。

   私が書くことが出来るバスの話はこれが全てだ。もし今後夜行バスとか乗る機会があれば、その時はまた書きたいなと思う。バスの窓から見る滲んだ夜の景色は、私の記憶の深い部分と結びついて今でもずっと静かに光っている。

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