dissonance
「ねえ、雪乃」
演奏会を三週間後に控えたその日、私は不安そうな表情を浮かべた瑠璃に呼び止められた。どうしたの、と尋ねると、瑠璃は言いにくそうにおずおずと口を開く。
「颯先輩、いなくない?」
耳にして、理解して、頭が真っ白になった。直前まで部室にいたはずの颯先輩が、全体練習が始まった瞬間どこかに姿を消していた。三週間前の大詰めの時期に、人数も比較的揃っていて確認がしやすいはずだったその日に、何も伝えず勝手に。合奏始めるよ〜、と顧問が出す指示に黙って従いながら、真っ白だった頭をどうしようもないぐらいの怒りが塗り潰していく感覚に手が震えた。颯先輩が練習にいないのはいつもの事だったけれど、その日はどうしても許せなかった。それまで積み重ねてきた鬱憤と怒りが、私の内側から溢れ出ようとしていた。
「何で全体練習抜けたんですか」
休憩時間に入ってすぐ、私は部室に戻ってきた颯先輩に詰め寄った。前置きも無しに切り出すと、颯先輩は悪びれずにまだ楽譜読めてなくてさあ、と笑う。怒られたくなかったのか、と考えて、同時にそれよりも強く、ふざけるな、と思った。楽譜を渡したのはずっと前で、つい先週も皆で確認したばかりの曲だったのに、その時も颯先輩はいなかった。腸が煮えくり返る、とか怒髪天を衝く、とか色んな慣用句がぐらぐら煮え滾る頭の中を駆け巡って、次の瞬間には私は声を荒げていたと思う。他人に、それも歳上に対してあそこまで怒ったのは初めてだった。
先週いなかったのバイト行ったせいですよね、演奏会まであと何回練習出来るか分かってんですか、他の子達がきちんと時間通りに来てるのにいつも遅刻してきて何とも思わないんですか、周りのメンバーに迷惑かけてること考えて動いてください、今までの人生で一番の勢いでまくし立てながら、私は自分がこんなに怒っていることに自分でびっくりしていた。熱くなった脳味噌は勝手にぐちゃぐちゃな言葉を吐き出して、おかしくなった身体は怒りと恐怖で震える。どこか冷静なままの自分が、パニックを起こしている自分を客観的に遠くから眺めていた。段々訳が分からなくなって、私はこんなこと言いたいわけじゃないんですけど、すみません、ほんとすみません、でも、でも、と怒りながら先輩に謝り続けた。
ここまでの内容は脚色ほぼ無しの実話なんですが、あまりにもしんどすぎて続きを書く気が失せたのでこの小説はここで終わります。とはいえ流石にここまで読んで下さった方の後味が最悪すぎるかなと思うので、この後についてはさっくりとだけ書き残しておきます。
この後先輩とは普通に仲直り(というか最終的に私が全ての思考を放棄)して、演奏会には先輩も含めてメンバー全員で出ることが出来ました。最後の最後までお互いに態度はそんなに変わらなかったし、演奏会が終わると同時に先輩は辞めてしまってそれきり会っていません。最初こそ悔やんだり申し訳なくなったり色々ありましたが、しばらく経って先輩のLINEのプロフィールの背景画像がKing Gnuのライブ会場の写真になったのを見た日に不思議と気が楽になりました。それまで土日は練習があったので、多分解放されてライブ行けたんだろうなと。私の人生と交わらない遠いところで、勝手に幸せでいてくれたらいいなと今は思えるようになりました。ちなみに最近アイコン画像も(おそらく彼女さんと撮ったであろう)ディズニーシーの写真に変わっていた。やっぱちょっと許せないかもしれん。
あと最後に何の役にも立たない蛇足。演奏会の最終日に、数年前に辞めた別の先輩がシャトレーゼの焼き菓子を差し入れしてくれました。人数分ぴったり12個、マドレーヌとチーズケーキタルトとブラウニーが4つずつ。年下から順に選んでもらって、最後に私と(なぜかその時も不在だった)先輩の分のタルトとマドレーヌだけ残ったんです。私はタルト食べたくて、一瞬だけ先に好きな方選んじゃおうかな……とも思ったんですが、いくら先輩のこと嫌いとはいえそこで他の人と差別化するのは違うよな〜と思って律儀に届けに行きました。で、お察しの通り先輩は見事にタルトを選び、私は帰りに余り物のマドレーヌ食べながら勝手に悔しがってたんですが、今思えばあそこであの行動出来てよかったな、と思っています。
あそこで自分の感情を優先していたら、多分私は無駄な罪悪感で悩む時間を自ら増やしていたんじゃないかなと思います。先輩が食べ物の好き嫌い多いことも一年間一緒にやって曲がりなりにも知ってはいたので、そういうことも諸々含めて、やっぱりあそこで先輩が好きな方を選んでくれて良かったです。書き終えてから思ったけどなんかこれ元恋人に執着する人間の書いた文章みたいだな……嫌すぎ……未練まみれの人生……
終わります!大ッッ嫌いな私の先輩、たくさん怒ってごめんなさい!!!お互い勝手に幸せになりましょうね〜!!!