見出し画像

かつて中学校の調理実習で、鰆のムニエルを作ったことがある。自分たちで食べる分を作り、更に各班に割り当てられた先生の分を作るのだ。おれたちは確か美術の先生のを作った。ぶっきらぼうでちょっと怖いイメージのある先生だったので、班の中で一番大きな切り身を使って作った。焦げないように丁寧に焼いた。見栄えはバッチリだった。昼休み前に先生の机に置き、昼休み後に皿を取りに行くと鰆が減った形跡が無い。「こんなの食えるか」と突き返された鰆は真ん中に箸で切れ目を入れた跡があり、一番厚い部分の身が生焼けだった。子供の作るものだから火が通っているかまず気になったのだろう。懸命な判断だろうが、せっかく作った料理を食べてもらえなかったショックはなかなかだった。料理を作ることには色んな意義があり、他人に食べてもらったり喜んでもらえるには子供が思っている以上に高いハードルがあるのかもしれない。調理実習は失敗だったけど、どうか料理の楽しさは奪わないで欲しいものだ。(火が通ってる端っこだけでも食べればいいのに、とかみんな思ったが言えなかったよ。今思えばあの言い方は無いよな。やっぱりあいつキライだ。)

そんなイメージのせいか否か、鰆は少々お高く止まったつまんない魚、みたいなイメージがあって、あまり進んで手に取ることが無かった。あえて鰆を食わなくても、と思いがちだった。それが先日たまたま、定食に出た鰆のなんとか焼き。甘辛の味付けが軽くしてあり、ご飯に合う美味しいやつでした。春の魚と書いて鰆。結構一年中見るけど。お前なかなかいい奴だったんだな。今まで敬遠してごめんよ。

今週は平和そのもの。
先週までの、危ない乗り物が身を掠めたり、見た事ない大きさの昆虫が飛んでいたり、大きめのグループに取り囲まれたり、有毒ガスが出て避難したり、鬼残業したり、昼飯食い損ねたり、火が出たり、意味不明の腹痛になったり、若い奴らが殴り合ってて怒号が飛び交っていたりするような雰囲気は一切無い。
ザ・平和。
いいじゃん。
しかし今思えば、それらに対応して順応してしまったおれでもあった。そんな中でも一定レベルの警戒をしながら危険を回避し、時には被災し、お菓子を分け合ったりして笑い合う仲間がいた。昼飯が無くなった次の日からは早めに買い占めるようにしたし、必要な装備はレベルアップしながら調達したし、安くて良い宿屋探しに尽力した。
毎日が祭りで、楽しいってのもちょっと違うけど、生きてるって感じがしたなあ。
それに比べて今は、生きてて当たり前。それで良いんだけど良いんだけど。だけど何だろう、この空虚感は。地元に戻って楽になっただけなのに、何か凄く横着しているような罪悪感。それが何かは分からないのだが、胸の奥で何かつかえているような気がしてならない。

そういえば先日食べた鰆には骨が一切無かった。誰かが一本一本外してくれたんだろうか?食べやすかったのだがチキンナゲットじゃないんだから。よくよく考え始めると不自然な話だ。別に骨があったらどかせば良いし、子供や若い人には練習になる。骨の周りには美味しい部分があったりする。だから過剰なサービスは余計なお世話なのだ。そうは思うが世の中便利になり過ぎている。一度文明社会をぶっ壊して、一からやり直したら面白いのにね。鰆も美味しくなったりして。