2024/12/25 正しい自己認識をしたいって話
今日は少し課長と話をした。どうやら課長は年明けから一人で外回りさせたいらしい。それを聞かされたときの自分の心理に引っ掛かりを覚えたため、今回はそこを深堀りしていこうと思う。
外回りを打診したときの自分の回答は、「私的には現場でやってみないと分からないことも多いし、同行で学ぶべき部分も少なくなってきたと思っているので、是非とも外回りしたい。ただし、先日同行した部長の評価は芳しく無いと思うので、本当に私を外に出すべきかは課長に判断してほしい。」である。
思い返してみて思うのは、自己評価に対する自信が低すぎること。自分が思う自分を全く信用していないため、外からの評価に全て任せようとしている。また、自分の意思を著しく軽視しており、他人に自分の人生の責任を取らせようとしている動きである。他人に自分の人生の責任を負わせるということは、即ち私は私の人生の主導権を捨てているということに他ならない。
とはいえ、これでも少しは鬱蒼としていた時期よりは十分回復したものである。恐らく半年前の私であれば、「できません」か「やります」の二択で答えていただろう。自己肯定感を完全に失っている状態だったため、自分には絶対に出来ないと判断して諦めるか、やらなければ存在価値が無いという強迫観念に駆られて、何もわからないのに無理やりやるか、という判断しか出来なかったと思う。
自己肯定感を失って生きてきた期間が何だかんだ長く続いていたため、自己肯定感と調子に乗っている状態の境目が全く分からなくなってしまった。今の自分の状態が果たして良い状態なのか、危うい状態なのか、判断が付いていない。そこの判断が付かないから、他人に全部自分に対する評価を丸投げしている。まだまだ、自分の人生を自分の手中に戻すには時間がかかりそうである。
正しい自己評価を出来る程度に自信と客観性を取り戻せたとき、なんて生きやすい人生になるのだろうか。自分が出来ること、出来ないことを正しく評価して、弱点を克服するために努力することも、人に頼ることも、他人から頼られることも何もかも自由自在である。また、自己肯定感が低い故に、本気でそう思っている分質が悪い、気持ち悪いほどの謙遜もしなくなるだろう。(これも他人から「謙虚」と思われているか、「嫌味」と思われているか、全く知らないが)
何より、他人からの評価も気にせずに生きられるようになるだろう。自分が自分を正しく認識できていれば、他人からの評価なんて要らないのだから。考えれば考えるほど正しい自己認識が出来ることのメリットが大きすぎる。自己認識を助ける一環として、自分が出来ることの棚卸でもやってみるのも良いかもしれない。自分を信じてあげられる自分になりたい。とにかく今日の件で、そう思ったのだ。