ブックレビュー「私労働小説 ザ・シット・ジョブ」
私が著者のブレイディみかこ氏を知ったのは2019年作『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が評判になったからだった。同書はまだ読んでいないのだが、本書はタイトルからしてPunk精神を感じたのでこちらを先に手に取ることとした。
著者は1965年生まれなので私と同世代と言って良く、日本在住時からPunk Music、特にJohnny Lydonに影響を受けたらしい。
著者は、福岡県立修猷館高校卒業後、すぐに英国に渡英、ロンドンやダブリンで職を転々とし、無一文になって日本へ帰国するが、再び資金を貯めて渡英、英国保育士資格を取得、日系企業に勤務後、フリーとなり翻訳や著述を行なっている。英国在住は通算20年間を超える。
本書は私労働小説ということで、あくまでもフィクションではあるが、その中には著者自身の主に英国での労働経験が散りばめられている。そして本書でとりあげられる仕事のほとんどはいわゆる”Essential Worker”(「医療や福祉、第一次産業や行政、物流や小売業など、いかなる状況下でも必要とされる社会生活を支える職種」)の仕事だ。
数々の職業遍歴の中で学んだストリート哲学は深く重い。そして彼女にとっての多様性は人種や性的嗜好というよりも英国ならではの階級闘争・経済格差が根本にある。これを彼女は「縦の多様性」と呼んでいる。
本書の帯には次のような言葉が並んでいる。
中州のクラブと天神のガールズパブを掛け持ちした際に見た客や本名を知らない同僚、ホームステイ先や裕福な家庭のオーペアで経験する搾取と無意識の差別意識、ありもしない数字を出しまくることで売りまくる服飾店での仕事と機械の一部になるクリーニング工場、保育園の生真面目な見習い生が直面する冷たい階級意識、日本食のスーパーマーケットに務める日本に帰れない日本人たち、フードバンクで働く看護士の不充分な所得とHIV病棟でボランティアとして働く富裕層。
これらには経済格差や階級格差から生まれる社会の不都合な事実と搾取される人々の叫びが織り込まれている。
あとがきには、著者自らが本書を書くにあたって、きっかけになったのがデヴィッド・グレーバーによる「ブルシット・ジョブ-クソどうでもいい仕事の理論」であったことが記載されている。
同書では、ホワイトカラーの人が社会的意義がなく、内心必要ないと知っている作業に時間を費やしていることで道徳的、精神的に傷ついている一方、エッセンシャルワーカーは報われない待遇で不安を抱えている、ことが指摘されている。
私が本書を読んでまず思い出したのが、アインランドの「水源」だ。アインランドは利己主義(倫理的なエゴイズム)を支持し、他人のために捧げる倫理的利他主義を拒絶した人で「水源」においてもその主張は明確だ。
利己主義と利他主義は必ずしもホワイト・カラーとエッセンシャル・ワーカーとの対比とは言い難い。ただ他人のために捧げる利他主義的な看護士や介護士といった仕事が、社会的意義があるにも関わらず処遇面では恵まれておらず所得格差を生んでいるのは事実だ。一方利己主義はリバタリアンに大きな影響力を持っているといわれており、米国の政治はこのリバタリアンによる影響が大きい。
昨今Z世代やα世代が仕事に社会的意義を求めているのは、自分たちの上の世代が道徳的、精神的に傷ついている様を見てきたからなのかもしれない。ホワイトカラーとして経済的に恵まれても精神的には恵まれない前世代たちのようにはなりたくないという考え方だ。
コロナ禍以降エッセンシャル・ワーカーへの処遇は見直されつつある。著者はこの流れをデヴィッド・グレーバーが夢見た世界の変化の兆しが見える、と言うが、米国のリバタリアン思想から言うと、この変化が今後も継続的に行われるかどうかは危うい。
むしろホワイト・カラーは今後技術の進歩とともに、二極分化して行き、利己主義を実感する富裕層と社会的意義を実感できない貧困層に分かれていくように思える。
新たなホワイトカラー内での「縦の多様性」をいかに乗り越えていくのか。
日本が欧米化し、ホワイトカラー内でも所得格差が大きくなる中、階級社会先進国の英国から学ぶことは多くなっていくのかもしれない。
そこではアカデミックなインクルージョンでは無く、現実的なインクルージョン、すなわち「うまくバランスをとりながらやっていく」ことが必要になってくるのだろう。
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