ブックレビュー「ハーバード大学のボブ・ディラン講義」
以前、ロバート・シェルトン”ノー・ダイレクション・ホーム:ボブ・ディランの日々と音楽”のブックレビューで書いた通り、1962年生まれの私はなかなか同世代でボブ・ディランをしっかりフォローしている人に出会ったことが無い。大体が一回り上の人だ。
私の場合完全フォローには程遠いが、精力的に勉強しているという意味で同世代ではかなり珍しい部類の人間にカテゴライズされるのかもしれないが、今回もリチャード・F・トーマスの本書のレビューを書いてみる。
原題は”Why Bob Dylan Matters”と、まさに著者の下の世代に何故ボブ・ディランが重要なのかを説明することを意図した本だ。著者は40年間西洋古典文学の教授として、古代ギリシャやローマの詩人たちを研究することを生業としているが、実際にハーバード大学の新入生向けにボブ・ディランの講義をも主宰している。
トーマスは自らの古代ギリシャやローマの詩人たちの研究を礎に、ディランと古代の詩人の比較研究を2001年頃から始めた。そして比較研究を積み重ねていく内に、古代から現代まで時代を超えた詩人や作家たちの作品をディランが巧に引用しつつ、さらに高い芸術性のあるものへと昇華していることに確信を持っていく。
ディランの出身地ミネソタで2007年に開催されたシンポジウムに参加したトーマスはその町を特別ツアーで巡る中、ディランがラテン語クラブに加入しラテン語に熱心でローマ史に興味を持っていたことを知る。実際ディランは「もし人生をすべてやり直すなら教師になるだろうな。たぶん、ローマ史か神学を教えるんじゃないかな」とまで言っている。
またディランのおじが所有する映画館や他の地元の映画館で古代ギリシャやローマを題材にした映画を数多く見たであろうことを知る。高校2年生の頃には、ラテン語クラブのメンバーとしてローマ兵を演じたと思われることも知る。また1963年の1月にはじめてローマを訪れてから幾度と無くローマを訪れている。ローマへの興味は相当高かった。
トーマスがもう一つ指摘する点はディランの作詞手法についてだ。間テクスト性(インターテクスト性)と言う概念、すなわち既存の文章やイメージや音楽を創造的に自作品に取り入れることにより、新しい意味を持たせるという工程をディランは極めて巧みに作品に取り入れているという点だ。
これは音楽的にはジャズやヒップポップで常套手段とされていることだが、歌詞については「借用」との批判を浴びることもある。しかしトーマスは「借用」が単に「借用」で終わっていれば、オリジナリティの問題が生じるが、T.S.エリオットの言説を引用して次のように言う。
未熟な詩人は借用し、熟練した詩人は盗用する。だめな詩人は取ってきたものの価値を損ない、巧みな詩人はより良い何かに作り変える。(T.S.エリオット「フィリップ・マッシンジャ―」(1920年)
そしてトーマスはディランの行為をこう表現する。
この作詞の方法は、ただ単にどこかから持ってきた語句を詞に取り入れる、あるいはちょっとした加工を施して利用するものだと考えるべきではない。むしろこれは、歌や、文学や、またその登場人物たちをローマからさらにホメロスの時代までさかのぼって掘り出し「変容」させることを含めた創造的な行為だ。
本書では著者が気がついた引用に加え、ディランのファンサイト等で指摘された他者の作品との類似点を具体的な文言を示しながら、ディランの「変容」させる巧みさをレビューしていく。
具体的な対比の中でも特に興味深かったのは、次のエピソードだ。2001年にディランが「”ラヴ・アンド・セフト”」を発表してから約2年後にウオール・ストリート・ジャーナル紙に、北九州市で英語を教えているクリス・ジョンソンというアメリカ人が福岡市のある書店で日本のやくざ小説、佐賀純一著「浅草博徒一代ー伊地知栄治のはなし」の英語訳版「Confessions of a Yakuza」を発見、その1ページ目のある文が、「”ラヴ・アンド・セフト”」に収録されている「フローター(トゥー・マッチ・トゥ・アスク)」の歌詞と似ているというのだ。
本書では他にもウェルギリウス、T.S.エリオット、エズラ・パウンド、ヘンリー・ティムロッド、オウィディウス、オデュッセウスを引用しているとしてディランの表現とオリジナルの表現を対比する。また謎めいているディラン本人のインタビューでの言説から彼の間テキスト性をもった「変容」の作詞手法を読み解いていく。
元々ディラン初期の音楽に見られた古いブルースやフォーク、またジャズにも見られるフレーズの拝借とディランの歌詞での古典文学等の引用は近しいものがあるし、さらに音楽的には、最近のカバーアルバムの発表は、まるで彼の「変容」のアプローチに自分自身が確信をもって進めている様にまで見える。
そして2016年にはディランはついにノーベル文学賞を授与されることになる。授賞式には出席しなかったディランだが、ディランに代わりパティ・スミスが出席、緊張の中ご主人だった故フレッド・スミスも愛していた「はげしい雨が降る」を歌っている。
独特の雰囲気に感極まったパティ・スミスがある部分で歌詞が口から出て来ず、もう一度その場所から歌を始める。当時批判を浴びることもあったが、むしろYouTubeで会場の様子を見ると、トーマスが指摘する通り、この貴重な式典をさらに価値あるものとしているように思われる。
ディランはその後ノーベル賞授与の条件である受賞スピーチをアカデミー宛てに送った。
ファンはよくご存じだと思うが、ディランが過去の自分の詞を説明することは稀だ。「何を意味するかは他の人たちに決めてもらうことさ」というのが彼のスタンスだったからだ。それがこのスピーチでは自らの曲に「ホメロス的な性質があるものがいくつかある」と正面から認めているのは大変興味深い。
トーマスは本書にクリントン・ヘイリンの2010年の著書を引用して、ディランが昔から三部作を作る達人だった、と指摘する。
1962年から1964年に出された、初期のアコースティック・サウンドのフォークソングアルバム、エレクトリック・サウンドが際立つ65年から66年にかけてのアルバム、そして1973年11月から1975年7月の間に仕上げた、ロマンティック(あるいは反ロマンティック)な3枚のアルバム、それからゴスペル3部作と呼ばれる1979年から1981年の3枚だ。
そして2012年に「テンペスト」がリリースされると、その前にリリースされた「”ラヴ・アンド・セフト”」(2001年)と「モダン・タイムズ」(2006年)の2枚と合わせて三部作とみなされた。そして2016年には3枚組で30曲を収録したアルバム「トリプリケート」を制作している。衛星ラジオ番組「テーマ・タイム・ラジオ・アワー」も全100回で、2006年から2009年までの3年間にわたって放送された。
そしてディランは未だ精力的な活動を続けているのだ。果たして次の三部作はどういうものになるのか。ファンの予想を裏切り続けたディランの新たな「変容」が楽しみだ。