見出し画像

ブックレビュー「ヒルビリー・エレジー」

能力は関係ないと言いたいわけではない。もちろんあるにこしたことはない。ただ、自分を過小評価していたと気づくことと、努力不足と能力不足とを取りちがえていたと気づくこと。それにはとても大きな意味がある
だから、白人労働者階層のどこを一番変えたいかと問われるたびに、私はこう答えてきた。「自分の選択なんて意味がないという思い込みを変えたいです」。

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

2016年のアメリカ大統領選でのドナルド・トランプの当選には正直衝撃を受けた。そしてその後その原因分析でトランプが”Rust Belt”(ラストベルト=さびついた工業地帯)」に住む白人労働者階層の心を掴んだことが一因であるとの報道を目にした。

私は1999年から3年近くKentucky州のLexingtonに住んでいたことがある。日系自動車メーカーとその部品メーカーの日本人が住む地域で、のどかな牧場や中流層向けの住宅地域、質素な日本食レストラン・スーパーがある田舎町だった。今でもその後住み移ったより裕福なConneticut州と比べてKentucky州での生活を私も家族も懐かしんでいる。

一度家族とこのLexingtonから車でConneticut州まで往復したことがある。その旅で初めて同じKentucky州でも雰囲気の異なる東側の炭鉱地域を通り、West Virginia州やPhiladelphia州の田舎町を車で走る機会を得た。米国でもこういった田舎町では見慣れた全国的なチェーン店は少なく、荒れ果てた住居が点在し、途中立ち寄るGasolin Standには見たこともないようなブランドの食べ物と不味いCoffeeが置かれていた。これらの田舎町こそが先の”Rust Belt”の一部だった。

本書はその”Rust Belt”の一部であるKentucky州東部のJackson出身でめぐまれない家庭環境に生まれ、母親は薬物中毒に陥りパートナーを繰り返し交換し、高校を落第しかけるも、典型的なHillbillyな祖父母の励ましの中、毎日の生活に精一杯生きた著者が、三年間の海兵隊経験を経て、州立大学を優秀な成績を修めファーストトラックで卒業、さらにIvy LeagueのYaleのLaw Schoolを卒業し、最愛の妻と共に弁護士として働くようになるまでのSuccess Storyである。

が同時に、”Rust Belt”に住む”Hillbilly”, "Red Neck", "White Trash"と呼ばれる白人労働者階層の実情や問題点の認知を深めてもらうための入門書でもある。小説家、翻訳家である渡辺由佳里氏によると「アメリカの労働者階級の白人」を、これほど鮮やかに説明する本は他にはないそうだ。

米国の貧困層というと日本ではマイナリティである黒人やヒスパニック系が代表的という認識が一般的だと思うが、南はAlabama州からGeorgia州、北はOhio州やNew York州の一部にかけてのGreater Apalachiaに住む白人労働者階層は、社会階層間の移動が少なく、はびこる貧困や薬物依存症に苛まされ、様々な世論調査によると、アメリカで最も厭世的傾向にあるという。

経済学者たちは、中西部工業地帯の衰退や白人労働者階層の働き手の減少を心配するし、著者もそれには合意するが、彼は本書で社会の衰退を食い止めるのではなく、それをますます助長する文化とはどのようなものなのかに焦点を絞って自らのエピソードを絡めて説明していく。

あまりにも多くの若者が、重労働から逃れようとしている。よい仕事であっても、長続きしない。(中略)
さらに問題なのは、そんな状況に自分を追い込みながらも、周囲の人がなんとかしてくれるべきだと考えている点だ。つまり、自分の人生なのに、自分ではどうにもならないとか考え、なんでも他人のせいにしようとする。そうした姿勢は、現在のアメリカの経済的展望とは別個の問題だといえる

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

冒頭の引用部分は、成功を収めた著者が白人労働者階層のどこを一番変えたいかと問われる度に答えた彼の回答だ。著書本人が海兵隊で学んだのは、人生において自分の選択こそ重要なのだ、ということだ。

そして重要な自分の選択を行う上で、著者がロースクール時代に学んだのは社会関係資本の大切さである。

社会関係資本とは、友人が知り合いを紹介してくれることや、誰かが昔の上司に履歴書を手渡してくれることだけをさすのではない。むしろ、周囲の友人や、同僚や、メンター(指導者)などから、どれほど多くのことを学べる環境に自分がいるかを測る指標だといえる。私は、選択肢に優先順位をつける方法を知らず、ほかによい選択肢があるかどうかもわからなかった。自分のネットワーク、とくに思いやりのある教授を通じて、それを学んだのである。

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

うわべではSuccess Storyを走っていた著者には、もう一つ乗り越える必要がある難題があった。「逆境的児童期体験(ACE)」という子供のころのトラウマ体験で、大人になってもその影響は続いていた。ACEは被労働者階層も29%が経験しているが、労働者階層では40%がしかも複数回経験している。

ACEを何度も経験した子供は、不安神経症やうつ病になりやすく、心疾患や肥満、特定の種類のがんを患うリスクが高まる。学校の成績が下がったり、大人になってから人間関係に悩んだりする確率も高くなる。また怒鳴られる回数が多いと、子供は安心感を持てなくなり、心のバランスを崩したり、問題行動を起こす。

つまり、私と同じような環境で育った子どもの脳のなかでは、ストレスや衝突に対処する部位が、つねに活性化され、スイッチが入りっぱなしの状態になる。熊の恐怖にさらされ続けた子どもは、いつでも闘争、あるいは逃走する準備を整えている。熊が、アルコール依存症の父親や、精神的に不安定な母親に置き換わっても同じだ。

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

そして愛する恋人と家族を持とうと希望しながらも不安を抱える著者にとっての問題の核心は、次の質問に凝縮される。

人生のよしあしは、どの程度、自分の選択に左右されるのか。文化や環境の影響はどれほど強いのか。一族や親は、子どもにどれほど悪影響を与えるのか。母の人生ははたして自業自得なのか。本人の責任はどこまでで、どこから同情すべきなのか。

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

まさにこれは昨年完読した宮本輝の「流転の海」シリーズのテーマと同じではないだろうか。

著者の母親は著者が成功を修めた後も、ヘロインに手を出し、著者は彼女を助ける。一方、同じ親族でも成功を修めた人もいれば、Hillbillyから逃れることに失敗した人もいる。

成功を修めた人に共通するのは「信頼できる家族がいた」ことと「お手本となる人物(友人の父親、おじ、職場の助言者)から、人生の選択肢や自分の可能性を教えてもらったことだ。

J.D.ヴァンス 関根光宏・山田文訳「ヒルビリー・エレジー」2017年 光文社

最後に著者は「社会政策は役に立つかもしれないが、私たちが抱える問題を、政府が解決してくれるわけではない」、「本当の問題は家庭内で起こっている(あるいは起こっていない)ことにある」という。

そして「私には完璧な答えはわからないが、オバマやブッシュや企業を非難することをやめ、事態を改善するために自分たちに何ができるのか、自問自答することからすべてが始まる」と締めくくる。

トランプが大統領に就任して7年が経ち、今朝トランプ前大統領がNY大陪審から起訴された。社会の分断は解決の兆しが見えず、トランプが刑務所から大統領選に立候補することは不可能では無いと言われている。

共和党ではフロリダ州知事のRon Desantisが有力候補で、民主党は就任時82歳のJoe Bidenの再立候補が有力も、不人気の副大統領Kamala Harrisを再び立てるのか。金利引き上げによる経済への下振れ効果が来年初めまで予想される中、今後も大統領選の行方が注目される。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?