私を構成する80年代のレコード...から10枚をひとつかみ
仲の良い音楽仲間とのオンライン飲み会でのテーマ設定第四弾は前回の「私を構成する」シリーズを今度は80年代(ちなみに第一弾は「無人島レコード」、第二弾は「奇盤・珍盤・迷盤」、第三弾は「私を構成する70年代のレコード...から10枚をひとつかみ」でした)。
80年代はディスコに加えてカクテルブームでカフェバーが流行、81年に放送開始したMTVの隆盛でミュージシャンがビデオクリップを量産、また貸しレコード屋の登場でそれまでよりも随分多くの音源を聴く機会に恵まれ、日本経済は80年代半ば過ぎからバブルに突入、さらにレコードがCDに置き換わる転換期でもあった。
私は79-80年の一年間の禁欲的な浪人生活を終え、大学に入学するとアルバイトと音楽とスキーで自由を満喫した大学時代に入り、大学3年間で卒業に必要な単位を修得していたので、何と大学4年時はゼミとクラブの練習以外には大学に行く必要がなかった。随分と贅沢な生活だ。
大学に入学するとそれまでのロック一辺倒からポピュラーチャートやディスコでの人気曲、AOR、そしてソウルやブラックコンテンポラリーミュージック(ブラコン)と網羅するジャンルが幅広くなっていった。これも前述した貸しレコード屋の影響だ。
前回「70年代のレコード」で、フュージョンやクロスオーバー音楽が好きになれなかったという話をした。その意味では、ブラコンはフュージョン系のミュージシャンが参加することが多かったのだが、すんなりと受け入れられた。結局私の好き嫌いは音楽ジャンルというよりも、インストはNGだが歌ものは大丈夫ということなのだと思う。
また、当時まだアルバム一枚をじっくり聴く時代ではあったが、MTVの影響でシングルヒットが重要で、ヒット曲を集めたコンピレーションアルバムも多かったので、アルバム単位よりも曲単位で聴くことが多くなった。その中には典型的なOne Hit Wonder(一発屋)もあった。
大学一年から二年はそういったポピュラーな音楽を中心に聴いていたのが、大学三年ぐらいからその反動かいわゆるブリッティシュインベージョンでパンク期にデビューした人たちがニューウエーブとして米国へ進出、MTVでも多くの英国音楽が流れるようになった。
一方、英国ではラフトレードやチェリーレッドといったインディーズレーベルが人気を博し、米国チャートとは異なるチャートアクションがあってそちらにも興味を持つようになる。
また80年代と言うとバグルス、新生イエスやアートオブノイズ、トレバーホーンなどヤマハが83年に開発したDX7を初めとするデジタルシンセ音源が多用された時期で、そのおかげで当時から80年代の音楽は懐メロにはならないだろう、とも言われていた。
個人的には大学時代もRock’in'Onは購読し続けていたが、一時ハマっていた岩谷宏は同誌から去って行った。一方急激に多くなった同誌での英国音楽の情報を参照すると共に、次第に残りの創刊メンバーである松村雄策の好みをメインにフォローしていくようになる。
大学を卒業すると間もなくCDの時代がやってくる。最初は安売り放出され始めたLPレコードで70年代に聞き漏らして貸しレコード屋に置いていなかったような旧譜を購入していたが、その後完全にCDに移行して行った。今考えるともう少しこの時期にLPレコードを購入しておけばよかったと思う。
また就職すると、音楽に費やす時間が極端に少なくなったことから、新しい音楽を追うペースは極端にスローダウン。さらに京都市内の工場から洋楽輸入盤など手に入るはずもない舞鶴市の工場へと異動となり、音楽情報は休日の実家のある神戸でのレコード屋周りと雑誌情報に限定される。
さらに二年も経たない内に、異動で今度は上京することになる。ちょうどバブルが膨らみ始めていて、東京生まれとは言えずっと神戸で育った田舎者は関西と異なるペースで物事が進む関東の文化に翻弄された。職種が変わり仕事の面でも自信が持てなかった時期で、音楽についても中途半端な時代を歩んでいくことになる。当時、CDは渋谷や六本木のWaveかレコファンで購入することが多かった。
それでも、89年の秋には運よく会社から短期留学制度に行かせてもらうことになり、ユタ州ソルトレイクとオレゴン州ポートランドの語学学校に通いながら、ホームステイの3家族と過ごすことで、米国での生活に慣れていった。
そういえば留学中にLittle FeatとThe Jeff Healy Bandの野外コンサートを見に行った記憶がある。同時にプログレ好きの人とABWH(Anderson Bruford Wakeman Howe)のコンサートに行くべくチケットを購入したが、こちらはコンサートがキャンセルになって払い戻しを受けた。
日本に帰国してからは、米国生活の余波もあって、日本の流行に流されない音楽嗜好を進化させて行った。MTVは商業化の流れを加速して行って、まだ購読していたRock’in'Onは相変わらず彼らの選択したミュージシャンに対して一大プッシュの傾向を強めていた。
そういった80年代を通じて自分自身にインパクトが大きかった10枚を選ぶとすると次のような選択になる。
1. Bill Withers ”Greatest Hits” (1981年)
発売は1981年だが、それぞれの楽曲は当然それよりも古い訳だから、本来は70年代の選択としても良いはず。それでもこのベストアルバムがヒットしたのは80年のGrover Washington Jr.の”Just the Two of Us"が1980年のグラミー賞最優秀アルバム賞を受賞したからだろう。
音的にはそれまでのソウルのような泥臭さは無く、またクロスオーバーと呼ばれたフュージョン系の音でありながらも、歌詞が米国人の心に響くようなノスタルジックでストレートな詩のため、今の時代でも引き続き称賛されているのだとお思う。
アルバムに収録された”Just the Two of Us"以外の曲もすべて素晴らしい。その後他のBill Withersのベストアルバムを聴いたこともあるが、この選曲と曲順が最も想い出深く自分としてはしっくりくる。
昨年Jose Jamesが全曲Bill Withersのトリビュートアルバム”Lean On Me”を発売、来日ライブを観に行ったら、ドラムが名手Nate Smithだった。Bill WithersというとJames Gudsonが名演を残しているが、このNate Smithもその流れを継承する素晴らしいドラマーだった。
Bill Withersは今年(2020年)の3月に心臓疾患からの合併症で亡くなっている。
2. Haircut 100 ”Pelican West” (1982年2月)
大学に入学してしばらくすると神戸三宮にあるDiscoに行くようになった。ソウルっぽい曲をかける店よりも、むしろ英国のニューウエーブ系の音楽がかかる店が好きだった。
特にファンカラティーナと呼ばれたModern RomanceとこのHaircut 100は印象深く、少しづつ英国勢の勢いが増してくるのを喜んでいた気がする。
Haircut 100はシンガーのNick Haywardがこの一枚目で脱退したが、その後も活動は続けていた。貸しレコード屋で借りたマキシシングルに収録された”Fish in a Bowl”という曲が気に入って、雑誌で鈴木慶一が高い評価をしていたのが嬉しかった記憶がある。未だに隠れた名曲だと思っている。
3. Pillows & Prayers(1982年12月)
ダンサブルな曲を好んでいた大学1-2年の頃が過ぎると、先のブリティッシュインベージョンでWham!やDuran Duranなどが人気を博していくのだが、同時にシンセがデジタル化し、サンプリングやリズムマシーンの冷たい音源とフィットするような陰鬱とした音楽が出てきた。
Depeche ModeやNew Order、それ以外にも、Yazoo。そして彼らのカバーなどをアカペラで聴かせたFlying Picketsが自分にはフィットした。またこの頃からシンセの音色に反抗するように出てきたネオアコースティック、そしてそれをさらに進化させたThe Smithが評判になっていった。
レーベルで言うとラフトレードをコンピレーションシリーズのClear Cutで良く聴いていた。
そのラフトレードと並んで、チェリー・レッド・レーベルがインディーズ系の音楽をプッシュするようになって、この1982年のクリスマスに発売されたコンピレーションは本当に気に入っていた。それまでのポップチャートで流れる分厚い音とは一線を画しているシンプルな音は極めて印象深かった。
看板アーティストだったBen WattとTracey Thornはこのアルバムでも曲を提供しているが、その後はEverything But The Girlを結成、初期のネオアコースティックな音からドラムンベースのエレクトリックな音楽に変貌、2008年には27年間の交際を経て結婚している。
4. Talking Heads "Stop Making Sense" (1984年4月)
Talking Headsはデビュー時から岩谷宏がプッシュしていたこともあり、1977年のファーストアルバムからフォローしていたバンドで、アフロリズムを大胆に導入した1980年の"Remain In The Light"はRock’in Onの渋谷陽一が「ゴミ」発言したので物議を醸しだしていたのをよく覚えいている。
要は当時のKing Crimsonが白人独自のリズムを追求していたのに対して、黒人のリズムを導入してダンサブルにするのはあまりにも安直ではないか、という主張だたったのだと思う。
そういった主張にもかかわらず、同アルバムは売れ、その流れでライブを敢行したのがこの”Stop Making Sense”で、映画も大変評判になった。
私は84年の暮れに唯一大学に通っていた理由だったゼミにも三週間の休みをもらって親戚や知り合いを頼ってNew YorkとBostonに一か月旅行に出かけた。その際にこの映画をNew Yorkで観た。
David Byrneが大きなラジカセを持って来て、その再生するリズムボックスの音源に合わせてアコギ一本で”Psycho Killer”を演奏、次にベースのティナが加わり、Talking Headsのメンバーが曲を追うごとに加わって演奏、ついには”Remain In the Light”に参加した外部招聘メンバーを招いて、圧倒的なリズムとカラフルに音を分厚くする姿が素晴らしかった。間違いなくロック史に残る映画だと思う。
5. ちわきまゆみ "エンゼル You Are Beautiful"(1986年)
メーカーに就職して、実習を終え、京都工場で経理実習を経て、1986年に本配属で舞鶴工場に赴任した。仕事はいわゆるシステムエンジニア。事務系の自分にとって晴天の霹靂だった。後から入社時のコンピューター適性試験の結果が良かったのだ、と聞かされた。
東京で生まれ、神戸で大学までを過ごした自分にとって、舞鶴という小さな町で過ごす日々は大きな変化で、町に馴染むというよりも、都会育ちの自分との違和感を際立たせることになった。
私が最初に購入した車はフィアットのリトモという車で、当然そういう車に乗っている人は舞鶴にはいなかった。その選択は現地の人にはインパクトを与えたようで、小さな町にさらに馴染めなくなって、結局毎週仕事を終えると、金曜日の晩には実家のある神戸に山道を走って向かう日々が続いた。
今考えると自然に恵まれ歴史もある舞鶴の良さがわからなかった自分を恥ずかしく思う。もしかすると舞鶴が生んだスター、ギャル曽根とも擦れ違っていたかもしれない。
毎週車を神戸まで運転する時間は約3時間で、その間に音楽をしっかり聴く時間が確保できた。一年後には大学時代のクラブの後輩が、何と同じ職場に赴任となり、神戸に彼女を残していた彼も一緒に神戸と舞鶴を行き来することになる。
ちょうどLPからCDに移行する時間だったが、CDへの移行に躊躇するところがあって、まだ新譜をLPで購入していた。その頃、特に気に入っていたのがこの「ちわきまゆみ」のレコードだった。おそらく最初のキッカケはロッキンオンの松村雄策が推薦していたように思う。
このアルバム以外にも次の”Dangerous is My Middle Name”はジャイアントシングル盤も購入した。T-Rexを彷彿とさせるグラムロックをベースにデジタルなリズムを組み合わせたちわきまゆみの音楽は当時新鮮だった。
このアルバムでは"Little Suzie"と”よごれたいのに”が気に入っていたが、その後前者のベースとなったのがRoy Woodの”Hello Suzie”であることがわかるのは数年後だった。
6. Terence Trent D'arby "Introducing the Hard Line According to Terence Trent D'arby"(1987年)
このアルバムもロッキンオンで渋谷編集長が高い評価を与えていたので購入した記憶がある。MTVでは"Sign Your Name"がよく流れていたが、本アルバムでは特にアカペラの"As Yet Untiltled”が印象深い。
MTVでこの人のビデオクリップが流れていたし、次のアルバムも一部では高い評価を受けたが商業的な成功は尻すぼみになっていった。
2001年からはSananda Maitreya改名して音楽活動を続けている。
7. RC Succession "Covers"(1988年)
先にも書いた通り、舞鶴での生活は二年も経たずで、88年の4月に上京することになった。仕事はそれまでのコンピューターとは全く異なる人事労政業務となり、しかも最もルール通りにならない福利厚生を担当することになった。
同じ社員から嫌がらせに近いクレームを受けるようになり、正直全く仕事が面白くなかった。福利厚生はルールがはっきりしない分社員の不満の吹き溜まりだ、と認識したのはこの頃だ。
その88年の8月に発売されたのが、この”Covers”。全曲洋楽のヒット曲に日本語詞をつけたもので、ゲストも山口富士夫、泉谷しげる、桑田圭祐と豪華な顔ぶれだ。このアルバムは核問題・原発問題を訴える「ラブ・ミー・テンダー」と「サマータイムブルース」が収録されていたことから、原子力発電を事業としていた東芝から圧力がかかって東芝EMIでの発売は見送りとなり、古巣キティレコードからの発売を余儀なくされたことでも有名。
この頃から「いかすバンド天国」というTVのバンドオーディションでデビューするバンドが続出、いわばバンドブームとなる。それに対抗するかのように忌野清志郎がゲリラ的に始めたのがザ・タイマーズだった。先の東芝EMIでの発売見送り騒動から、忌野清志郎は今度は覆面バンドというフォーマットでさらに過激なメッセージを訴えようという手段に出た。
当時なぜか、住んでいた新小岩から横浜国大の大学祭に行って、泉谷しげる、山口富士夫、ボ・ガンボス、ザ・タイマーズが出演したライブを観た。ザ・タイマーズは確かライブに行く前には出演が伏せられていて、当日突然覆面バンドとして現れたのだった、と思う。この横浜国大でのライブは一部が暴動になったということでも有名で、その意味では偶然歴史的なライブに遭遇したことになる。
8. Lennie Kravitz "Let Love Rule"(1989年)
社員の不満のはけ口となった福利厚生に嫌気が差し、仕事も面白く無いので、現実逃避からさらに海外志向が強まる。東京に赴任した際に、舞鶴時代に得た短期留学制度の権利は一旦保留、との約束だったので、その権利をしつこく主張した結果、89年の秋についにその権利を行使することができるようになった。
英語を学ぶ、という建前の短期留学制度だったが、既にその制度を行使した人の話を聞くと、三か月間自由の身になる天国のような時間であることがわかった。実際現地ではゴルフ三昧の日々だった。
行先は特に好き嫌いは無かったので、最初はユタ州のソルトレイクシティ、次にオレゴン州のポートランド(ホームステイ先は隣の州のワシントン州)になった。
合計三家族のホームステイを経験、英語自体の実力はたかが三か月で進歩する幅は限られていたが、米国で生活できる自信が持て、またその後さらに英語の学習を継続するキッカケになった。
現地では他の企業の人たちと一緒に色々な場所を訪問した。Yellow Stone ParkやLas Vegasまで陸路で行ったり、LAやSan Franciscoにも行った。さらに研修終了後に勤務先の駐在員のいるオフィスにも訪問した。
最後に一緒に研修を受けていたANAに勤務する年配の方とSan Francisicoを訪問した。この頃MTVでよくかかっていた曲がこのLeni Kravitzだった。彼がデビューした頃で、John LennonとSoulミュージックを混合したような音楽性が非常に印象深かった。
次のアルバムでSlashと共演した頃まではフォローしていたが、その後はあまり興味が無くなっていった。
9. Todd Rundgren ”Anthology”(1989年)
元々Toddに関しては高校時代に姉が借りて来たレコードで何度か聴いた記憶がある。
だが当時はギタリストに強い興味があり、Toddの場合ギターで作曲した曲とキーボードで作曲した曲の両方があることから、自分自身の彼に対する評価はマチマチだった。
それが1989年の”Nearly Human”からファンになり、次の1991年作”Second Wind”辺りまでTodd一色の音楽生活になる。この頃来日したライブは見に行ったし、ソウルレビューのようで格好良かった。確か来日した際のビデオが発売されていたように思う。
さらにToddの影響で、Power Popがマイブームとなり、Paul McCartneyやBad Fingerなどの古典的なPower Popのアルバムを遡って聴くようになる。その流れは90年代のJelly Fishの登場でピークを迎える。
ToddはBad FingerやXTCなど他のミュージシャンのプロデュースで衝突することで有名だが、自分自身の音楽をも崩壊させるところがあって、2000年代には一度歌謡曲のようなエレクトリックな音楽でダンスをしていた。それが一昨年頃に自らの楽曲を再び振り返るようになって、来日した時にはやはりヒット曲の連続となったのは嬉しかった。
1997年にサエキけんぞうが企画した「トッドは真実のスーパースター」も素晴らしいアルバムで、特にカーネーションが日本語で演奏する”A Dream Goes Forever”は名演だと思う。
10. The Stone Roses(1989年)
80年代の最後を締めくくるのはご存じThe Stone Roses。当時Rock’in'onの編集長だった増井氏が一大プッシュしていた。
何といってもデビューアルバムの”I am the Resurrection”の歌部分が終わった後のインストパートが素晴らしすぎて、当時何度聴いたことかわからない。ブレイクを挟んでファンキーな演奏が続くところは後のRaveにもつながるのだろう。
何度か再結成しているThe Stone Rosesだが、2017年の春に再結成来日武道館公演があり、楽しみにしていたのだが、3月にスキー衝突事故で右肩上腕部複雑骨折のため入院し残念ながらライブは見送らざるをえなかった。当時他にも予約していたNorah JonesやCold Playの公演も見送ることになった。縁が無かったということか。
そして80年代の最後には、個人的にはこの頃から絶対に将来海外で働くのだ、という強い気持ちが止まらなくなっていった。(以下続く)
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上記に述べた通り、当時はアルバム単位では無くて、シングル単位で聴く習慣に変遷していく時代だったため、シングル曲で想い出深い曲も多い。番外としてその当時よく聴いた曲を挙げておきたい。
大学一年時の1981-82年で想い出深いのは、REO Speedwagonの"Don't Let Him Go"と”Take It On the Run”、Quincy Jonesの”Just Once”と”Ai no Corrida”、EW&Fの”Let’s Groove”、八神順子のパープルレインはこの曲のイントロそのままだったRay Kennedyの”You Outa Know By Now”、Bobby Caldwellの”You Promised Me”、Joe Chamey Bandの”Proud”、Larsen-Feiten Bandの"Who'll be the Fool Tonight"、Daryl Hall & John Oatesの”Kiss on My List”と”Private Eyes”。
二年時の1982-83年は、Chaz Jankelの”Glad to Know You”、Modern Romanceの”Bring on the Funkateers”、Human Leagueの”Don’t You Want Me"、Yazooの”Don’t Go"、Niteflyte "II"、D Trainの”You’re the One for Me"、Rick Jamesの"Super Freak"と”Give it to me Baby”、Kid Creole & The Coconutsの"Annie, I am Not Your Daddy"、Culture Clubのアルバム”Color By Numbers”。
三年時の1983-84年は、David Bowieの"Let's Dance"、New Orderの”Confusion”、Depeche Modeの”Everything Counts”、Herbie Hancockのアルバム”Future Shock”、Genesisの”Mama”、Aztec Cameraの”Walk Out to Winter”、Romanticsの”Talkin’ in your Sleep"、Madonnaの”Burning Up”、Paul Youngの”Wherever I Lay my Hat (That's my Home)"、The Kinksの”State of Confusion”と”Don’t Forget to Dance"、Carl Carltonの”She’s a Bad Mama Jama"、Juniorの”Mama Used to Say”、Cool & The Gangの”Get Down On It”。
四年時の1984-85年は、Style Councilの”Mick’s Up"、Joe Jacksonの”You Can't Get What You Want"、Princeの”Purple Rain”、Depeche Modeの"People are People"、Howard Jonesの”What is Love?”、The Smithsの”The Smiths”と”Hatful of Hollow”、Frankie Goes to Hollywoodの”Relax”、Julian Lennonの”Valotte”。
こういった曲を含むApple MusicのPlaylistはこちらで聴くことができる。