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ブックレビュー「世界は経営でできている」

当たり前の話で恐縮だが、この数日間あまりにも暑い。

昨日はオンライン・ワークショップの仕事があったので、日中はずっとエアコンの効いた部屋の中で一人デスクに座って画面に向かって声を上げていた。

ずっと家の中にいると、どうしても運動不足になるのでYouTubeで14日間チャレンジ2をやるのだが、流石に外の空気も吸いたくなって出かける。と言っても、アスファルトの上を歩くのは不快なので、家から車で涼しい店舗に移動して、建物の中を意味もなく徘徊する。ところが暑さのせいか気の利いた新商品も、お買い得品も見当たらない。

こういう小さなストレスが蓄積するとどこかで爆発したくなるかもしれない。もし残念ながら私に会わないといけない人がいるようなら、美味しい食事か心地よい音楽を聴かせてくれないと、トバッチリを受けるかもしれないのでご注意いただきたい。

本書の著者は、組織学会・日本生産管理学会所属の経営学者だが、学生時代から小説で新人賞を目指した人で、経営学に近い場所で小説・評論の可能性を模索していたというユニークな経歴の持ち主だ。

このため本書ではこれまで読んできた経営書の文体とは違って、本人曰く「令和冷笑体」により自虐的なカッコ書きが多用されていて、また合計15のトピックスに対して人間の不条理・非合理性を面白可笑しく紹介するので、うっかりすると本質を見失ってしまいそうになる。

しかし本書の根底には「本来あるべき経営」という考え方が脈々と流れている。

本来の経営は、「価値創造(=他者と自分を同時に幸せにすること)という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体を創り上げること」

出典:「世界は経営でできている」

タイトル「世界は経営でできている」は、経営者の目でみるとあらゆることが経営である、あるいは経営のヒントはすべての世界にある、ということを著者(と本書の編集者が)キャッチーなものにしたのだろう。そのタイトルが、成功したのかどうかはわからないが、本書を読み進めていくうちに先の「本来あるべき経営」を身近な出来事からも学べるのだ、という意図は十分理解できた。

これまで日本の多くの経営に見られた「短期利益志向」や「部分最適志向」は奪い合いの発想から生まれるものであり、その根底には「価値有限思考」がある。これを経営によって価値は創造できる、と転換することが必要だ、と著者は主張する。

顧客に粗悪品を掴ませ、従業員を搾取し、株主を上手に騙し、他社を蹴落とす以外に企業を成長させる道はないと思い込むのもすべて「価値有限思考」のなせる業だ。本当は、価値は無限に創造できる、であり、そこでは他者は奪い合いの相手では無く、価値創造の仲間なのである。

昨今人的資本経営では、会社側の視点だけではなく、それと対立することもある働く側の視点を意識することが大切になっており、企業価値創造に向けたシナリオ作りにおいて両方の視点を意識しないと、労働市場がますますタイトになる中、タレントを惹きつけ引き留めることはできない。すなわち労働者を幸せにできない。

顧客志向に偏って、儲けも少ない取引を続けるような「手段と目的の転倒」を起こしたり、下請け企業をいじめたり、働き手にシワ寄せが来るブラック企業に陥ったり、エンゲージメントは労働組合任せにしていた昭和の経営は、著者の言う「本来あるべき経営」では無かったわけだ。

とは言え、本書で挙げられているトピックスすべてが「経営でできている」というのは少々無理があるようには思う。

例えば恋愛において「価値創造」を目的にして合理的な計算ずくで相手が自分に迫ってくるのであれば興醒めだ。恋愛は短期で破綻したとしても、また最終的に共同体を創り上げることに失敗したとしても、当事者の人生にとっては想い出や傷跡として残るのだから、恋愛を手段として切り捨てるのは如何なものか、と思ってしまう。

著者もその点は承知していて、例えば「芸術の中にさえも経営は見いだせる」といった表現が見られるし、また「おわりに」で著者が吐露している通り、「経営概念と世界の見方そのものを再・転換する」という本書の目的を達成するためには、「センスメーキング」、すなわち言葉を言葉で変える、が必要だったのだ、という。まさに確信犯的なのだ。

なお本書の節題はすべて既存の文学作品、映画作品、哲学書等のパロディらしい。こういうセンスも令和的だ。少子高齢化で学生数が減る中、経営学者もこれからは他の同業者と競合しないようなタレント性が必要不可欠であることを敏感に先取りしているのが本書だ、ということなのだろう。

なぜなら、経営学者であること自身が経営なのだから。


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