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節目に気分を変えてデデキントカットに。

新年あけました。今年はフライングな初詣で年明け前に行いました。なんならラスト詣の方が正しいかもしれないですね。そんな本末転倒した詣の帰り道の車中で2021年から2022年になった瞬間を迎えました。だからなのか、なんとも年が変わったということにピンときてないです。
そもそも、誕生日と言った類い全般そうなのだけれども、「今日から○年!」というものが非常に記号的で好きではない。時間はなんとなく、線の様なものでそこに節があることに違和感がある。ずーっと連続しているものであって、切り取れるものではないと思っている。

勿論、社会生活を送って行く上で時間を区切って節目にしないと数える事が出来ないし、生まれて何千日です、っと言っても不便だし、なんなら「日」という単位も区切っているわけだし。そもそも非常に記号的、実用的にするためにあるのだからそれはそうだろう、とも思う。
本来区切りの無いところに、名前をつけて区切っていると言うわけです。

名前をつけると言うことは、物事を分けることだと思ってます。

犬は、チワワとかダックスとかの種類は知っているから見れば種類ごとに分けることができるけれども、例えば、狐であればどんな種類を見ても「狐」としか言えず分けられない。

そもそもなんで分ける必要があるのだろう。分けるためには、その線をひくための指標がある。その指標を人間で言えば、性別であったり生まれた国だったり肌の色だったり。その指標があることで「違い」が認識される。
上記の例の「違い」を認識することはポジティブな、イメージではないかもしれないが、好きだからこそ「違い」に敏感なこともある。
私は靴が好きで、スニーカーからスパイク、ランニングシューズ等が大好きなのです。だから製品毎の細かな違いが非常に気になるし、詳しくない人からしたら全く同じ後継機モデルの靴などのマイナーチェンジにワクワクします。

好き、といえばlikeという言葉にあるように人間は「似ている」ものを「好き」になるらしい。ミラーリングが人間付き合いでオススメされる。でも、恋人については、多様性を求めて、遺伝的に遠い(似ていない)人にloveの感情を持つと聞いたこともある。なんとも矛盾したように感じる話だけれども、違いを尊重したり認める事がloveなんでしょうね。

閑話休題。閑話復活。更に余談ですが、あえて「違い」
と記載してきましたが、差別と区別てなんだろうと。
差と区!非常に感覚的なので説明は省きますが、差別は3次元的、区別は2次元的なモノの分け方なんじゃなかろうかと。

閑話休題。
余談だけの話なんで、双子葉類の根っこみたいな文章になったけれども、私の言いたいことはこれ。
誕生日とかで勝手に区切らないで。私は永遠に18歳(と、千数日)
という事ですね。多分違うけど。

竜頭蛇尾とすら言えない、竜頭ダービーな文章。
頭が竜で下半身馬なキメラは見た目カッコ良さそう。

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