社会性と固定観念に縛られているためにおしっこが出ない
絶賛入院中。右膝を痛めたのはかなり前だが、腫れが引いてからも明らかに曲げ伸ばしが困難になるという後遺症が続いていた。手術しなければ治らないことを確認できた以上、できるだけ早く対処したほうがいいという点で主治医とは意見が一致した。
手術は全身麻酔で眠っている間に終わる上、内視鏡による患部の縫合などを行うので心理的な負担は少ない。なにせ、十数年前に左膝で同様の手術を経験済みである。病院が違うので差異はあったものの、概ね想像した通りの手順で点滴を受けてスムーズに意識を失い、目が覚めてからも前後不覚になることなく、早急に状況確認ができた。
前回の手術では、麻酔から目覚めると口内から喉までが傷だらけで辟易した。麻酔下で呼吸をさせる管を差し込むためなので仕方ないが、その不安を事前に伝えておいたからか今回傷はまったくない。これは嬉しい変化だった。
もうひとつ喜んだ違いが、尿道カテーテルがなかったことだ。尿道カテーテル。一人で立って小用を果たすのが難しい患者のため、尿道から膀胱まで達する(らしい)管を挿入する方法である。これは前回かなり嫌だった。誰も自分の股間から管が伸びてして定期的に水分が吸い上げられるのを喜びはしないだろう。
その尿道カテーテルが今回はなかった。とはいえ、膝の手術後は当然歩くことはできない。トイレはどうするのかというと「お小水は尿瓶でお願いします」と看護師さん。
尿瓶。使ったことがない。形状的に男性しか使えないであろう、原始的な尿受け。心理的に抵抗はあるが、膝手術の一大事においてはささいなことだ。
さて、手術日は前日の夕飯から丸一日絶食だ。術後は横たわったまま身動きはとれない。何も入ってこないので、便意は催しようがない(もしものときは差し込み便器らしい)。
当然水分もとれないが、点滴がある。水分不足を防ぐことなどを目的にポタポタと薬液が垂れてくると、喉ではなく血管を通して尿意が高まっていくことになる。
誓っていうが、尿瓶を使うことについて覚悟は決めていた。そんなことで駄々をこねたりはしない。然るべきタイミングになったとき、為すべきことを為すために寝たきりのままナースコールを押した。
渡された見慣れない尿瓶(プラスチックなので正確には瓶ではない)を確かめ、こぼさない角度を検討した上で横たわったままあてがう。しかし、困ったことになった。
出ない。まったく出ない。
尿意がなくなったとかそういうことではなく、明らかに膀胱は満タンなのに一滴も出てこないのだ。
最初の糸口さえつかめれば自然と排尿できるはず。傷の痛みの中で体の角度をあれこれ動かし、試行錯誤するがまったく出ない。腹筋を使い、なんなら下腹部をグイグイと押しても一滴も出ない。これはどうしたことか。麻酔の後遺症だろうか。
手術当日である。簡単ではあるが心拍数をモニターする計器類がつながったままだ。横たわったベッドで弱々しく体を起こし、腹筋に渾身の力を込めるたびに計器から警告音のようなアラームがなる。血圧も脈拍もあがっている。これで看護師さんが飛んできたら「おしっこがでなくて力んでしまいました」と説明しなければならない。焦りながら、一旦呼吸を整える。
冷静になって自分の状況を考える。仰向けになったまま排尿するのが難しい、という事情はありそうだ。普段と違い、重量に逆らう力が必要になる。しかし不可能ということはないだろう。ここまで力を込めても出ない理由にはならない。
もうひとつの要因として考えられるのが、心理的に抵抗感だ。ベッドに横たわりながら排尿することが許される世界に、これまで生きてこなかった。それはタブーだ。自分の中の社会性が、排尿の最後の栓を締めるブレーキになっているのではないか。これは大いにありそうだった。
要は気持ちの問題ということになる。いやでもこの期に及んで。覚悟は決まっている。尿瓶もしっかりセットした。ベッドを汚す危険はまったくないのに、それでも出ないのか。こんなに簡単なことができないとは。
自分を捕らえる社会性という檻の、その堅牢さを思い知った。これまで、自分はその気になればなんでもできる、と思っていた。ベッドで寝たままおしっこをしないのは、あくまで自分の意志である。必要であればリビングの真ん中でも礼拝堂の真ん中でも、おしっこができる人間だと思っていた。
けれどそれは違った。常識と習慣、そして固定観念に無意識まで占領された自分は、ベッドの上でおしっこができない!だってここはトイレじゃないから!
思い描いてきた自分という存在が崩れ去る感覚を、深夜の病院ベッドの上で横たわりながら、尿瓶を片手に思い知ったのだった。
ベッドのふちに腰掛けるとどうにか出た。膀胱破裂するかと思ったわ。