結局「生きづらさ」って何?
今日はとある方と2時間近く話した。
その中で、「結局くぼけんがしたいことは何なの」に対する答えがよくわかっていない。
僕は、自分に矢印を向けられたとき、素直に「○○がしたい」と言えない質である。
確かに、鹿児島のリーダーになりたいし、誰かの生きづらさに寄り添い、夢や希望を応援する人にもなりたい。
けれどそれは、人と環境に依存している状態なのだ。
そこに目を向けてしまうからこそ、「○○がしたい」ではないのだ。
「○○しなければいけない」と勝手に決めつけて、自分のしたいことにしているのだ。
でも、「○○しなければいけない」もしたいことなのである。
というか、したいことだらけなのである。
は。矛盾しているじゃん。そして、何言っているかわからない。
そう思っていただいて構いません。
自分で自分がよくわからないのだ。
それが、自分の思う「生きづらさ」なのかもしれない。
会話の機会が終わった後、ひょんなことから過去に書いた文を読み返すことになった。
だいぶ前に、熊代亨さんの『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』を読んだ感想をこんな感じでまとめていたのだ。
僕はこれを読み直して、
「あぁ世の中に踊らされているんだな」と感じてしまった。
back numberの『青い春』みたいに。
過去に書いたはずなのに、結局自分は変わっていなかった。
与えられた枠の中でしか僕は生きられていない。
その人や環境といった世の中という水槽の中でしか生きていけていないのだ。
それを世の中に投影し、勝手にそうしなければいけないという使命感に駆られているのだ。
そんなのを取っ払った時。自分がしたいことは何かを振り返る。
村が作りたい。
好きな人たちが集まる村が作りたい。
昔から、高校サッカー部の同期にちらほら言っていたし、やりたいよなって話もしたよな。
自分の好きや得意を表現して、生業にしていく。
僕はそこで、いろんな人たちが笑顔で楽しそうにしているのを死ぬまで見ていたい。
ちっぽけな理想を思い描いている。
どうか少しだけ、自分のわがままを許してください。
本当は就職という枠に埋もれた生き方をするつもりはない。
そもそも、就活に生かされるつもりもない。以前「就活の意味」として、noteに書かせて頂いたこともあるけど、あれは社会で生きていくために必要なことと思っている。社会や世の中を軽視しているつもりもない。
そういう前提で、うまく社会や世の中を使わせていただくのだ。
就活を勝ちに行ってやる。
このままだと世の中のバフとナーフに左右されてしまう自分しか見えない。
周りに左右されない生き方をしてやる。
というか、こういう「生きづらさ」を抱えた人たちを救いもしたい。
ま、「○○しなければいけないと」、「○○したい」は表裏一体なんだよ、きっと。