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世の中の「正解」じゃない、自分の価値観で生きる

※この記事は、「性暴力」に関する言及がありますので、閲覧にはご注意ください。

こんちは、かわこうです。

今日はものごとの「正解」という考え方についてお話したいと思います。

世の中、「正解」というものはあるのでしょうか

僕は限りなく「ない」に近いニュアンスで物事を捉えています


例えば僕の経験した例で言ってみます。

以前、性暴力の加害者支援の事業を立ち上げる業務を担当したことがあります。
性暴力の加害者です。

古い言葉で言う、強姦とか、強制わいせつとか、痴漢、盗撮、公然わいせつなどです。

こんな言葉を聞くだけで嫌悪感maxになる方もいらっしゃると思います。
反射的に、「そんなヤツ世の中から消えろ!」みたいなこと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

もしかすると、被害に遭われた方、身近な大切な人が被害に遭ったという方もいらっしゃって、そういった方々の心中もお察しすると、そんな感情を持ってはいけないとか、僕からは到底言えるものではありません。

性暴力加害は「魂の殺人」と言われます。それだけ、被害者の心を傷つけ、生涯に渡って苦しめるものです。

そんなことを犯した、性暴力加害者を支援するってどういうこと!?と思われるかもしれません。税金を使うわけですし。

ここで大変意見が分かれて賛否両論出てくるところだと思います。

・そんな奴に税金を使うなんてありえない
・さっさと死んでしまえ
・でも、被害をなくすためには加害者をなんとかしないといけないよね
・加害者にも育ちの中で何かしら苦しみがあったのかもしれない

とか、いろんな意見が出てくると思います。


どれが唯一無二の正解なのかって、ないんじゃないかと思うんですよね。

一応、僕の中の正解というか、立場というのは、性暴力加害者を支援した方が良いという立場でしたし、今もそう思っています。

児童相談所での経験がありまして、そこでは、育ちの中でどういう経験があったかをよく理解した上で子どもの支援をします。

子どもの中でも性加害・被害というのは頻繁に起こるんですが、その子の持って生まれた特性や育った環境、周囲の関わりによって、歪められている部分というのは往々にしてあると思います。

もちろんその行為を肯定することは一切できないです。

でも、行為を肯定できないのであって、その子自身、その子の人生を肯定できないわけではないはずです。

自分が仮に同じ境遇で育っていたとして、それでも加害行為等、不適切な行為をしない人生を歩めていたか、分かりません。

加害の裏には被害が隠れていることも多いわけですね。

そして、それまでの人生が苦しかったとしても、失敗をしても、やり直せる社会であってほしいと思っています。

もちろん、そのままで生きていて良いわけではありません。自分の罪と深く深く向き合って、大きく変わっていかないといけない。

でも、人間はいつからでも変われるから、成長できるから、やり直せる機会をできるだけ与えられるような社会であってほしいのです。

そして、被害を減らすには、加害を減らす必要があります。極端に言ったら加害する人が0になれば、被害は0になります。
そういった視点からも、行政にできることは、加害者を支援することだと考えたわけです。


さて、これは僕の考え方です。
唯一の正解でしょうか?違いますね。

違う意見を持つ人も必ずいます。
そしてそれで良いと思いますし、自分と意見の違う人がいるということの方が心地良いとも思います。

我々ホモ・サピエンスは、多様性があったからこそここまで生き延びてくることができました。
現代においても、組織の多様性を高めることが、生産性向上につながると言われています。

多種多様な意見を持つ人が集まるからこそ、人間社会なわけだし、だからこそ個人個人も生きていて充実を感じられると思います。

みんなが同じ考え方を持っている集団の中にいても、波風立たずに少しの間だけは心地よいかもしれませんが、刺激がなさすぎて、充実した日々にはならないような気がします。

人間関係で苦しむことがあったり、つらい思いをしたりするからこそ、人は成長できるし、振り返った時に充実した人生だったなと思えるんじゃないかと思います。


特に、人間関係の中で「正解」を求めようとすると、苦しさが出てくると思います。
職場でも、「この役職の人はこうじゃないといけない」とか、「こう振る舞ってくれるのが正解だ」とか、思っていても、その相手の人は全く自分とは違う価値観を持っていたり、違う行動指針を持っているので、自分の思い通りに動いてくれることなんていうのはまずあり得ないと思います。

そして、思っている以上に人それぞれの価値観や行動指針っていうのは違うんじゃないかなと僕は感じています。

世の中に絶対の「正解」はない
でも、人それぞれの中に「正解」らしきものがあって、そのたくさんの「正解」らしきものが共存しているのが世の中なのかもしれませんね。
そして、それをお互いに尊重できている状態、これが僕は美しい世の中だと思います。「正解」じゃなくて、自分は美しいと思うっていうことね。

だからこそ、人それぞれ価値観の違う人たちが集められた世の中で、人と一緒にいたいと思うし、いろんな話を共有してその違いを楽しみたいと思うんです。


大事なのは、世の中の「正解」に従って生きようとするのではなく、自分自身の価値観で生きていくこと。

今まで世の中の「正解」に従って生きてきた人は、自分の価値観で生きよと言われても、大海に放り出されたような感覚になるかもしれません。

時間がかかるものだと思います。

恥も失敗もたくさん必要だと思います。

自分の人生を生きる勇気や覚悟みたいなものも必要かもしれません。

自分の人生は自分のものです。世の中の「正解」を求めて生きてしまった先に、人生を後悔する気が僕はします。

自分の価値観に沿って生きたときに、初めて生きた感覚を覚える気がします。


さて、僕の考えを書いてきました。みなさんがご自身の価値観と向き合うためのちょっとしたきっかけになれば幸いです。

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