科学的根拠とスピリチュアリティ
エビデンス。
数年前から一般的にもよく使われるようになったことば。
科学的根拠というやつですね。
科学の発達、様々な研究の蓄積、そしてDXの進展に伴って、特にビジネスで、そして、私生活で何かの改善に取り組む時にも重要視されてきているものだと思います。
例えば効率的にボディメイクをするなら、より最短で理想の体型になれるようエビデンスのある方法を取り入れたいと思うのは自然なことですよね。
YouTubeのチャンネルや書籍でも、このエビデンスを意識した記載というものが本当に多く世に出回っていますし、そういう分かりやすいものが現代の人々にとても受け入れられやすいのでしょう。
一方で、スピリチュアル。
特に僕ら日本人にとっては馴染の薄い人が多く、敬遠されがちなんじゃないでしょうか。
かく言うぼくも、ずっと敬遠し続けてきたわけです。
根拠もないのにどうやって信じれば良いのだと。
さらに日本では、オウム真理教がとんでもない事件を起こしたり、最近でも旧統一家庭連合のことがあったりして、そういうこととスピリチュアルというワードが強く紐づいていて、敬遠される要因になっているんじゃないかと推察されます。
そんな中、最近、とてもスピリチュアリティ溢れる本を読むことになりました。
Amazonでよくよく詳細を見もせずジャケ買い的に買った結果、その本が自宅に届いたわけです。
幸い、ベースが仏教のようでしたので、結果的に興味深く読むことができたんですが、その本の本筋とは別に、スピリチュアリティへの考察について考えが巡りました。
仏教の教えについて、古くに確立されていったその教えに、当時科学的根拠はなかったと思います。今でこそ、その教えが後から科学的にも正しいと言えた、という証明はあるにせよ、当時はエビデンスベースの考えではなかったと思います。
しかし、こういった宗教というのは、世界の歴史と大きく結びついていますよね。
というか宗教が世界の歴史を動かしてきたと言っても過言じゃないぐらいでしょう。
それだけ僕ら人間はスピリチュアルなものに突き動かされる動物なんだと思います。
偉大な力があるものなんだと思います。
もちろん、科学の発達に伴って、エビデンスを重視する考え方はとても大事だと思います。
しかし、僕ら人間が歩んできた歴史を振り返ると、そういったスピリチュアルなことにもとても大きなエネルギーがあり、人生をよりよく歩んでいくことに、とても大きな役割を果たしてくれるものなんじゃないかと、思いはじめています。
思ってみると、科学的根拠というのは、論文などにおいて、主に言語によって提供されます。
でも、僕ら人間に関することって、言語で全て表現しきれるでしょうか。
例えば性格。
AさんもBさんも「明るい性格」と評されたとして、その2人は同じ性格だと言えるでしょうか。
そんなわけないですよね。これは人の性格をどんなに言葉で詳細に表現しようとしても、正確には表現しきれません。言語には必ず限界があります。
感情。
今、悲しい。
昨日も悲しかった。
「悲しい」と、同じ言葉で言語化したとしても、今の悲しさと昨日の悲しさは同じではないはずです。
そうやって考えていくと、言葉で表現されたものは、必ずしも信用できるとは限りません。
もちろん、人間には言語化能力があって、コミュニケーションができることによってこれだけ進化を遂げてきました。
限界はあるにせよ、言語化という能力は、現代を生きる僕ら人間にとっても本当に重要な役割を果たす能力です。
でも、やっぱり科学的根拠や言語で全てを説明できるものばかりではないと思います。
エビデンスベースで正しいとされているボディメイク法から少し外れて、自分の感覚を頼りにやってみると、思いのほかうまくいったとか。
何か形のないもの(神様とか)を信じることによって力強く自分の人生を生きることができるとか、スピリチュアルに助けられることは大いにあります。
そしてこういった形のないものを想像したり信じたりする能力も人間にしかないものです。
よく思うのが、人は人が思うほど強くない。
何にも依存せず、自立した人間が大人、みたいな考え方もあるかもしれませんが、僕はわりとそれは幻想で、どんなに人間にも、何かしらに依存しなければ生きてはいけないものだと思います。
その弱みに漬け込む悪徳な集団については気をつけないといけないと思いますが、形なくても、エビデンスなくても、自分が信じたいものに心酔して、適切な範囲で依存しながら生きるというのは、僕ら弱い人間という動物にとっては、必要なことなんじゃないかと思います。
そして、そうやって生きていくことが、人間として生きる醍醐味なのかもしれません。