誰かの支えになりたい、とかこの人を支えにしようとか。
好きな神社に、連理の枝の木がある。言わずと知れた、縁結びにご利益のある2つの木が融合した状態の素敵な木だ。
共に支え合いながら生きているものの象徴として崇められているこの木だが、さて、本当に支え合っているのだろうか?
私は、半分はノーだと思ってる。なぜかって?だって植物は普通、まわりの個体よりも自分が養分を取るように生きている。だから、この二本の木たちは、弱かったら相手に養分をとられてしまう可能性も十分にあるのだ。だから、ここまで寄り添って二つとも大きく育っているということは、お互いが負けないようにメキメキ養分を吸って強く生きた結果なのである。
だから私はこの二本の木は、支え合うというよりも良きライバルみたいな関係なのかなと思っているのだ。そして結果支え合ってるみたいな。ここまで考えたら、わたしの中で大好きな言葉がきらっと光った。
"ドーンと圧倒的に光っていることが愛"
これは、私が大好きな小説であるアムリタの中で出会った言葉だ。これを聞いた主人公が"愛っていうのは状態を表す記号ってこと?"と返していたが、私もまさにその通りだと思っている。愛は行為を示す言葉ではない。状態を示しているのだ。
"共倒れにならない"
何があっても影響を受けずにドーンとしている友人の姿に私はいつも支えられてきた。彼女たちは私と同じ苦労を共有しているわけではない。ただただ隣でドーンと強く光っているのだ。何かしてくれるわけではないし、心配してくれるわけではないけど、不思議と心強いのだ。彼女たちは私のことを信じ私の人生を心配していないということは、私を強い気持ちにさせる。まさに状態としての愛を受け取っていると思うし、私は彼女たちの愛に生かされて自分もどんどん進んでいこうと思える。彼女たちとお酒を酌み交わすことをイメージしただけで私は強くなれるのだ。
支え合おうとする関係ももちろん素敵だと思うけど、自分が相手にしてあげられることなんて限られているし、相手のことは全てわかるわけではない。まるで連理の枝の木のように、ただただ隣でどっしり生きててあげる。そういう愛の形も私は素敵だし、めちゃくちゃ強いと思ってる。