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世界は言葉でできている

縄文人にとって、弥生人が持ってきた新しいテクノロジー「稲作」は環境破壊と思ったに違いない。

稲作、つまり、米を食用にする、ということは調理器の存在が前提としてある。米は生で食べても美味しくない。炊飯することによりβデンプンがαデンプンへと変化し、甘みが生まれ、美味しくなって、消化も良くなる。よって弥生時代は調理器が発達した後に生まれた。

縄文人は文字を持たなかった。文字は自然にはないものだから。ただ、言葉は使った。業務連絡には必要だ。「サン(山)、ムラ、イエ、ハラ・・・」しかしそれはあくまで必要最低限の使用にとどめていたのではないか。自然の前において人間なんてものは小さく、かつ、汚す、傷つける。木を切り、獣を倒し、魚を獲って食べる。ただ、あくまでそれは自分たちが生きていくために必要最低限の量にとどめ、好き嫌い言わず、ある範囲でいただく。ところが好き嫌い言わず食べたところ、毒があったり、消化に悪い植物のあることがわかる。ある種のキノコは猛毒だ。そこで加熱のために調理器を作ることを誰かが思いついた。とはいえ、自然からいただくのに、「バチ」が当たるのではないか。これまで調理器なしに食べていた量より確実に増えるから。穢(けが)れる。

そこで、お祓いをすることにした。お祓いを模様にして、刻んだ。形にもした。火焔土器はどう見ても実用的とはいえない。あんなに飾りが突起していたら、調理しづらいし、なにより壊れやすい。それでも、作った。なぜならあれはデザインや飾りではなく、「祈り」そのものだからだ。「祓い給え、清め給え」という。

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つまり、突起している部分はコンセプトであり、コンセプトすなわち言葉、文化なのだ。だからこの形態の土器が出土する場所は同じ言葉と文化をもっていたことがわかる。沖縄からも同様の土器が出ているということは、縄文時代から沖縄と本土は言葉や文化を共有していた証左である。ところが台湾では発見されていない。石垣島と台湾はとても近いのに。

津軽海峡は現在でも船で渡るのは困難な海流がある。ところが、北海道でも突起した土器が発見されている。文化が共通していたのだ。

なぜこういう話をしているかというと、「世界は言葉でつくられている」ことが縄文土器研究からも裏付けられるから。

悩みは言葉で生まれる。たとえば、どこか身体の不調を覚えたとしよう。スマホで検索する。何か病名書いてある。言葉だ。その「病名」が脳に刺さる。気になる。気になる。気になる・・・ほんとうにその病気になってしまう。言葉が病気を作る。

悩むとき、日本人は胃が痛くなる。ニューヨーカーは頭痛を覚える。パリジェンヌは背中が痛くなる。それは「悩む」という言葉と胃、頭、背中という身体の各部位との「連結」が文化として延々と受け継がれているからだ。

日本人は「腹」が好き。「腹落ちする」「腹をかかえて笑う」「腹が立つ」。

悩みの多い人は悩むのが趣味なのである。つまり、「言葉遊び」が好きなのだ。「悩みを無くしたい」と真剣に思うなら、考えない。それでも考えるよね? そのとき、「立っている土台」を変えてみる。たとえば、「あの上司は私を敵視している。だからいつもいじめてくる」という土台があるのであれば「あの上司は私を恋愛対象として好きに思っている。だからいつも粉をふってくる」と考える。

世界が変わるよ。

世界は言葉でできている。あなたのいまの環境はすべてあなたが選択し使ってきた言葉なのだ。

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