問いが中心の世界へ
世界は 静かに 変わりつつある。
目に見える現象面では、日本とアメリカの政治リーダーが変わった。
考えてみれば、昨年から変化は起こっていた。
ノートルダム大聖堂火災2019年4月15日-16日。
首里城火災2019年10月31日。
ユーミンが「結界が破れはじめた」とツイートしてるけど、確かにそんな感じがするよね。
「働き方を変えなきゃね」と言いながら、労働時間の長短という、極めて貧しい議論しかできていなかった。
2020年になって、コロナが一気に加速した。
そして、将来の教科書に必ず載る世界史的一年になった。
加速したのは問いだ。
「本当に人が集まって仕事しなきゃいけないの?」
「外出できなくなったけど、あなたが行きたいところって、本当にそこだった?」
「あなたが暮らしたいのはそういう生活?」
「生きる意味って何?」
「幸せって何?」
「あなたの商売って、自分以外の誰の役に立っているの?」
「会って打ち合わせするのと、オンラインで打ち合わせするのと、どう違う?」
「そもそもあなたはどんなライフスタイルをしたいの?」
これらの問いはすべて本質的なものばかりだから、昨日の延長に答えは、ない。
でも人間、本質的な問いを考えるのはしんどいので、考えずに目の前のタスクをやって気を紛らす。
こんなフーコーの言葉がある。
「歴史は人間の存在が非連続的な状態にあるということに気づかせてくれるときに意味がある」
2019年と2020年は非連続的に存在していて、ただ単に時が連なった結果ではない。同じく、2019年の「私」と2020年の「私」とは同じ存在ではない。
「歴史を学ぶ目的は、過去を理解するためではない。現在を見つめる観点を変え、現実を変えるためだ」(フーコー)
コロナがぼくたちに迫っているのは「現実を変えろ」「価値観を変えろ」だ。
「ある出来事の基本的な存在論的性格は、それを出来事たらしめる空白に命名することだと言える」
アラン・バディウのこの言葉はとてもヒントになる。
出かけられない
買い物できない
学校や会社に行けない
旅行に行けない
基本、ヒマである
これら「コロナによる制限」による「空白」はどう命名、ネーミングすればいいのか。
ぼくはきっとこれがコロナが提示している新しい価値観になると思うんだ。
それがまず、加速した問いとして、投げかけられた。
おそらく、人によって問いは違う。
でも、大切なのは、答えじゃなく、問いなんだ。
これまでぼくたちは、答えばかり求めて、結果、こんな世界を作ってしまった。
世界は 静かに 変わりつつある。
問いが中心の世界へと。