ル・コルビュジエ@国立西洋美術館(名建築で作品を展示する功罪)

逆に今まで開催されなかったのが不思議なくらい「コルビュジエ展@コルビュジエ建築」。建築と空間(そして建築家の存在)が人々にいかに大きな影響を与えているかということをこれでもかと実感させられる。

だってのっけからいきなりこれだよ。建築学生によるいくつかの模型を並べただけ(建築展では必ずと言っていいほど活用する手法だし,研究室による実力やクオリティの差はあれども実際,建築を学ぶ学生たちの意欲とレベルの高さはよく理解している。ここで言いたいのはそういうことではない)。それでもこの空間が十分成り立っていることの意味たるや。それを認めることは,展覧会に関わる者にとってはある種の敗北宣言ではないかと思う。「建築や空間に力があれば(作品に力がなくても)場が成立する。」

展覧会の空間構成がどんどんカラフルにスペクタクルになっている近年の風潮には疑問を感じている(そして「力ある空間」にも二種類あって,単に奇を衒っただけのものでも上辺だけを汲み取れば時に威力を持ち得てしまうってことが本当に問題)。本当に力のある作品はやっぱりホワイトキューブで観たいと(そこで真っ向勝負してほしいと),猫も杓子もホワイトキューブ一辺倒だった時代からすると考えられないようなノスタルジーに満ちた希望を抱くのであった。

この「コルビュジエ」機能は終盤まで途切れずに続く。コルビュジエは思想家としてそしてもちろん建築家としては疑う余地のない偉大な人物だが,画家としては決して一流であったとは言えない(オザンファンも…)。この二人の立派な”ピュリスム絵画”を延々と見せられるのはなかなかのものであった。特徴的な天井の高低差や突然現れる小さな階段(でも登れない)といった建築の面白さがなかったら退屈極まりなかったと思う。数少ない展示のピカソやブラック,レジェと比較すると圧倒的な実力差がはっきりとわかる。

作品を単体で見るとそういう少し安直な感想。ただ,恐らくこれが今回の企画の肝だと思うのだが,コルビュジエはこの美術館を「同時代の芸術を見せる場所にしたい」と言っていたのではなかったか。だからこの美術館には,古典的な絵画やコンテンポラリー作品は確かに似合わない。コルビュジエが様々な人々と数多くの活動をしていた時代に生まれたものーマスターピースから駄作,アンビルトまでーその人生の試行錯誤の軌跡を,建築家として多大な影響を与えた日本の弟子たち(彼らこそが日本の近代建築の礎を築いた建築家である)が完成させた建築の中でたどるという,これほどふさわしい内容はあるだろうかと。偉大な建築家が後の世代に与える影響というのは非常に重要である(コルビュジエ→安藤忠雄など)。時にそれは美術家の比ではない。そう考えると,未来の建築界を担う学生たちの存在が導入部において示唆されていたことにもちゃんと意味があるのではと思うのである。

CADしか知らない世代が当たり前になったからこそなのか,「手書き原図」の意味と価値も倍増。本来であれば捨てられるものであるのに。破れたトレーシングペーパーに走り書きしたようなサヴォア邸のスケッチ(習作中の習作),これに一番コルビュジエの魂を感じたかな。

展示室を出て,こういう景色が目の前に開ける構造など本当に素晴らしい。窓の直線,コンクリートやレンガなど見どころ満載。

今回は特別展と常設展がゆるやかに連結していて,これだけ20世紀前半の空気にどっぷり浸った後にいきなりドラクロワ,ミレー(ジャンフランソワのほう),クールベなどが凄まじい迫力で出てきた時には,瞬時に適応できず。空間は依然コルビュジエ,そこに一連のクールベ(特に《波》は素晴らしい…一点だけでもずっと観ていられる)。苦しい。ああ,やはり傑作にコルビュジエの力は不要なんだなと再認識。階下にミロなどが見えるので少し安堵し(そしてそういう見方のできる建築手法にやはり唸らされるのでありました),モネの部屋を抜けて中庭とロダンのコラボレーション,ようやくピカソやレジェにたどり着くのでした。西洋美術史も大変(個人的にルオーが2点観られたのが大きな副産物)。

ピロティから正面の東京文化会館を。コルビュジエVS前川國男と常に比較されるこの二大マスターピースはできれば戦わせないでおきたい。左手にあるブールデルのヘラクレスがどう見ても文化会館に向かって弓を構えているのが凄い。


(おまけ)上野から散策した谷中銀座付近で遭遇したモデュロールくん。タイムリー。

ル・コルビュジエ 絵画から建築へーピュリスムの時代 会場:国立西洋美術館 会期:2019年2月19日ー5月19日 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2019lecorbusier.html

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