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akakilike『希望の家』/あたらしい劇場プロジェクト 野外劇『パレード』

《Documenting20240714》
akakilike『希望の家』
於:シアタートラム
あたらしい劇場プロジェクト 野外劇『パレード』
於:境南ふれあい広場公園

 たまたま同日に、結婚や家庭生活をテーマにした作品を2本観た。

 まずは三軒茶屋でakakilike『希望の家』。冒頭、ジャージ姿の若い男が観客に向かって「桃の缶詰」と「宝石」と「ガソリン」について語る。彼によれば、「桃の缶詰」を食べた後にピンク色の「宝石」を見ると、「桃の缶詰」みたいだな、と思うが、本来どちらが先でも上でもないはず。なのにこうして順序や序列を付けたがる人間の認知の癖をキャンセルするために、「ガソリン」という新たな物品を思い浮かべ、「桃の缶詰」と「宝石」の関係を調停する……。男がこんな意味不明な理屈を語っていると、唐突に爆音で聞き覚えのあるクラシックが流れ、ローラースケートを履いた白いタキシード姿の男と、黒いドレスを着た女らがなだれ込んでくる。誰しも聞き覚えがあるだろうこの曲は、ワグナーの「ローエングリン」第三幕前奏から婚礼の合唱に至る部分で、結婚式の定番だ。ローラースケート男と黒ドレスの女の婚姻を描く本作は、冒頭の若い男の意味不明の話の中にすでにそのテーマが示されている。「桃の缶詰」と「宝石」とは、男と女、愛情と結婚といった、本来は序列がつけられない二項であり、そのふたつを調停する「ガソリン」には生活、金、子供といった要素が代入できよう。ローラースケートの男と黒ドレスの女の結婚生活は最初から失調しており、夫は妻に服や爪の手入れに気を使ったほうがいいとねちねち説教し、妻は夫が家庭人には必要のない服に金を遣いすぎているとをなじる(男の足は、まさに地に着いていない)。ダンサーの倉田翠が主宰するakakilikeは、ダンスと演劇の境界にあるようなパフォーマンスを特徴とするが、ほとんどの作品において役者間のダイアローグは見られず、セリフはモノローグとして語られる。この夫婦もめいめいが勝手に喋るので、必然、彼らの言葉は一方的なそしりとなる。ここには自身も結婚生活を送っている倉田の経験が反映されていると考えられるが、作中では妻側の言い分だけではなく夫側の言い分も一応は語られているのに注意したい。人は実生活において自分の視点でものを見るが、それを舞台作品に昇華するためには、自他の関係を反省して「相手にも語らせる」ことが必要になるということだろう。こうしてさんざん罵りあった二人が、テーブルの上に立ってお互いの腕を掴み、じりじりと体重を外側にかけていくシーンは、単純だが際立っていた。それは、少しでもバランスが崩れれば片方、あるいは両方が地面に落下する――婚姻関係が崩壊するという、結婚生活のギリギリの危うさを表象している。

 終わってから武蔵境に移動して、駅前の公園にて野外劇『パレード』。吉祥寺シアター職員で、かつて「しあわせ学級崩壊」という劇団を主宰していた小西力矢が作・演出を務める20分間の短篇劇。ストーリーはこうだ。ある女の元に、死んだはずの夫と娘がやってくる。女は取り乱すが、やがて、彼女が夫を1年間監禁した上に殺したこと、娘も何らかの方法で「見殺し」にしたことが発覚する。ラストは、妻が逮捕されたというニュースの音声が流れて幕が閉じられる。

 この死んだはずの夫は、冒頭から「パレードはいつ来るの?」と何度も妻に尋ねる。妻はパレードなんか来ないと主張するが、ラスト、妻の逮捕の報に混線する形で「パレードはまもなく始まります」というアナウンスが流れる。つまりパレードとは、妻の犯罪の発覚と夫の復讐の成就を指すものと受け取れる。しかし、これを待ち望んでいたのは実は妻の方だったのかもしれない。そもそも、彼女は夫との時間を「ただただ退屈」な生活だったと振り返っている。それは1年間の監禁生活のことを指しているとも考えられるが、娘が妻に突きつける脅し文句――自分と父親は死んでもこうして女の前に現れ、「頭がおかしくなるくらい退屈な退屈な、一糸も乱れない単調で完全な生活」を一緒に送る、というセリフからは、妻にとっては家族との暮らしこそが耐え難い退屈をもたらすものだったことがわかる。どうやら夫と娘を殺しても続くらしいこの究極に退屈な家庭生活から解放されるために、犯罪の露見という破滅が必要だったのであり、それこそが日常をぶち壊すパレードなのだ。演劇において待つと言えば『ゴドーを待ちながら』だが、来るはずのないゴドー=神による救いが、本作ではパレードという祝祭=日常のカタストロフとしてやって来てしまう。

 akakilikeの描いたギリギリの危うい結婚生活と、『パレード』の「退屈すぎて死にそう」な日常。家族の暮らしを描いた両極の作品を1日のうちに見て、その振り幅にくらくらした。

 それにしても、武蔵境というベッドタウンで、家族連れが多く見守る中、監禁・子殺し・結婚生活のネガティブな面の強調と、よくこんな物騒な内容の芝居ができたなと思う。ただ、顔を白く塗った夫を見て子供たちはゲラゲラ笑っていたし、パレードという言葉から想起される祝祭的なイメージは、終始かすかに公園に響き渡っていた。考えてみれば別に犯罪をあおっているわけではないし、こういうよくわからないものに子供も、普通に生活する家庭人も出会ってしまうことは、人生を豊かにするのではないかと想像する。

 終演後、公園と連続している市立の図書館に寄ってみたが、そこはなんと、受付や身分証の提示もなしに誰でも自由に入って過ごしていいようになっていた。監視社会の風潮がすっかり内面化された都会暮らしの身としては、「大丈夫かな?」と勝手に心配してしまったくらいだ。しかし、どれだけコストをかけて警戒しても公共空間で良からぬことをやろうと思えば簡単にできてしまうのだし、人を疑い注意事項で縛ってげんなりさせるより、もっと他にやるべきことはあるような気がする。そんなことを、今日起こったトランプの銃撃事件と重ねて合わせて考えていたのだった。

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