ウンゲツィーファ『動く物』2024
《Documenting20240419》
ウンゲツィーファ『動く物』2024
於:PARA
「ウンゲ演劇集 ふたりぼっちの星」と題した公演企画で、新作『旅の支度』と2本同時上演。この『動く物』の初演は2016年で、再演時にリライトしたものをベースにすでに何度か上演している劇団の代表作だという。私は初見。
舞台は若いカップルが同棲するワンルーム。「毎日休みみたいなもん」で暇を持て余している男と、仕事で疲れ切っている女の仲は、かなりギスギスしている。部屋の一角にはおがくずのようなものが詰めこまれた水槽があり、姿は見えないがどうやら小さなペットがいるらしい。劇中でははっきり明かされないが、ハムスターのようだし、途中で挟まれる映像には爬虫類のようなものが描かれていたし、戯曲には「ハリネズミが飼えるくらいの(水槽)」というト書きもある。本作の題になっている「動く物」という言葉は、「動物」という単語を分解したものだ。動物を人間と同じ集合に位置する存在として見るか、あるいは単なる「動く物」として見るか、という認識のあり方が、本作の大きなテーマになっている。
このペットは死に至る何らかの腫瘍を患っているが、女が30万円近くかけて治療することを当然としているのに対して、男は「ミチヨシ(ペットの名前)には、解んないんじゃないの?」と言う。ペットの知能では自分が病気であること、そして治療をすれば治るということは理解できないので、わざわざ大金を払って治療するのはもったいないというのだ。女がペットを人間と同じ家族の一員として遇しているのに対し、男はそれを知性のない「動く物」としてしか見ていない。しかし逃げ出したペットを探している際、クローゼットの中で彼はペットが言葉を話すのを聞いてしまう。ペットは自分が病気であるとはっきり言った上で、「君は、僕に、言ってほしいことがあるんだろう?」という謎めいた言葉を残す。直後、男はこのクローゼットの中で、パートナーが隠していたものを見つけてしまう。それはお腹の中の赤ちゃんを撮影したエコー写真だった。女を問い詰めると、皮肉にもペットの治療代と同じ30万円程度の手術代ですでに堕ろしたという。ここで男は、実家で飼っていた「バカ犬」が子供を生んで一気に「母親」に、「大人」になったという思い出を語り、だから子供を生むことは「動物として」自然なことだったんじゃないかと訴える。
ここには興味深いアンビバレンスがある。実は男は動物の習性に詳しく、この日も女を動物園に誘っていた。水槽の中のペットを家に持ち込んだのも彼である。彼は動物を「動く物」と見下しながら、動物の生き方こそ理想であると考えている。それは、彼が人間社会でうまくやれていないという現状と無関係ではないだろう。社会の中で周縁化されている男は、動物の生に絶対的な価値を見出してすがっている。この思考はまぎれもないイデオロギーである。彼は善も悪もないはずの動物の生き方を勝手に普遍的原理とし、自分を救う一言を「言ってほしい」と願っている。しかし、もとは人間社会におけるルサンチマンから生まれたこの動物イデオロギーは、動物のように生きれば自分も社会的に立派な「大人」、ひいては<父親>になれるんじゃないかという「人間」らしい欲望に転倒していく。
一方の女にもアンビバレンスはある。彼女はペットを治療する気のない彼に「命」の大切さを語る。ゴキブリホイホイの中で死んでいたヤモリを「可哀想」とも言い、埋葬しようとする。しかし、彼女にとってヤモリと一緒に死んでいたゴキブリは「命」未満の存在であり、ヤモリのお供え物としてゴキブリホイホイごと埋めようと提案する。男は人間と動物を分けるが、彼女は人間・ペット・ヤモリといった<私たち>と<私たち以外>を分ける。これもイデオロギーである。だが、女は男が無職であるという経済的事情から、もっとも守るべき「命」であるはずの自分の赤ん坊を堕ろしてしまった。そして罪の意識と先の見えない生活に疲れたように、「私たちって、動物の資格あるのかな」とつぶやく。男と違って社会の中で「ちゃんと」生きていたはずの自分が、実は動物でさえなかったのかもしれないと気付いたときの衝撃――。このとき、彼女の中で自明のものだった<私たち>というイデオロギー、そして社会で「ちゃんと」生きていくための指針は、激しく揺らいでいる。
本作は人間と動物のどこにスラッシュを入れるのか、人間であることと「ちゃんとした」人間であることの差は何か、といった認識の枠組みを舞台上で可視化する。そして今の日本に生きる普通の人々が、いかなるイデオロギーに支配されているのか、理想化された生と我々ひとりひとりの現実はどれほど隔たっているのかということを考えさせる。ウンゲツィーファを主宰する劇作家・本橋龍は、社会の最小単位であるふたりの人間を微視的に描くことによって、もっとも個人に密着した、もっとも現在的な政治性に到達しえている。
ラスト、ペットのミチヨシは大勢の仲間と合流し、ふたりのもとを去っていく。「動物をよく見よ。ただの動物を」というまたしても謎めいた言葉を残して。これが男の聞きたかった言葉なのだろうか? なぜ女も一緒にこれを聞かなければならなかったのか? この最後の言葉には、社会において(勝手に)当たり前とされている家庭を築くための資本=経済的余裕を持たないカップルが、それでも今日一日を生きていくための<やけくそのイデオロギー>が込められているように感じた。
※8/15追記
観劇から4ヶ月経って、たまたま飴屋法水の『キミは珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?』をパラパラと読み返していたら、あとがきの中にラストのミチヨシのセリフとまったく同じ一文を見つけた。
「動物を見よ。動物をよく見よ。ただの動物を……。」
飴屋によると、すべての動物はただ生きて死んでいくだけなのに、人間だけが己の肉体を超えた何かになろうとする。のみならず、他の生物を飼いたいという「飼欲」「育欲」さえ抱くという。この人間と動物の違い、その関係性は、『動く物』のストーリーと明らかに通じている。一方で、珍獣の飼い方をガチで解説する飴屋の本からは、『動く物』のカップルが抱える社会的な問題や、動物・子供を介した価値観のすり合わせといったテーマまでは読み取れない。本橋はこの『キミは珍獣と暮らせるか?』を読んだことをきっかけに、自らの生活歴と実感に沿ったフィクションを書いた、ということなのだろうか。九龍ジョーが編集するリトルプレス『Didion』3号で、本橋は飴屋と対談し、かつて飴屋が経営していたペットショップ「動物堂」の跡地を訪れたことや、飴屋が2014年に岸田國士賞を受賞した際に『キミは珍獣と暮らせるか?』を読み直したことなどを語っているので、相当に影響を受けていることは間違いない。だからどうだということでもないのだが、セリフの元ネタを見つけたので、一応記録しておく……。
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