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それでもあの香水はふらない


何色とも呼び難い複雑に染められた布に、ぼくは包まれていた。
長い時間をかけて染色してきたその布は、あっけなくぼくから離れ、それは紛れもなく、ぼくが自ら脱ぎ捨てたからだった。


洗濯機から鈍い音が聞こえている。それは、あの部屋でも聞こえていた音に似ている。
何かが引っ掛かっているような、彼女の心の淀みが音となって響いていたんだろう。
ぼくを触れる手つきに、ぼくの名前を呼ぶ声に、今ならまだ間に合うよってサインがあったかもしれない。

味方、という表現がぴたりと当てはまるような存在だった彼女は、もう星が違うほどに遠い。
その星はもう瞬くことはなく、ぼくの見えない向こう側で生き始めている。



異性にしか埋められないものがある。
ぼくには無い甘美さ、柔らかさ。
匂いや体格差、それに生ぬるさ。
何も得られないゆきずりのシーツの皺と、がらんどうな帰り道。
ゴミ箱に捨てられた丸まったティッシュには、温かさがまるで感じられない。嘘と嫌悪と罪と苛立ちが包まれている。

その人にどう触れても、指先が覚えているのは彼女の素肌で、苛立ちが募っていく。
好きなのかどうかが分からなくなっても、身体が、意識の外にある感情が求めている。


わかっているつもりです。

もう、触れられないことは。


この人は好きになれるかもしれないと、ある人に想った。
会いたいと思うし、触れたいとも思う。名前を呼びたいとさえ。
でも、好きになれるかもしれない、恋はそうやって始まるものだったっけ。
予想して、意識して、濡れて、ランチをして。
そんなふうに恋をするんだっけ。

なんか、違う。

彼女を思い出さなくなるきっかけとなり、最終的に愛することができるなら、それでもいい。

もしかして、大人はこうやって恋をする?


その人との布を染めていくのだとしても、たぶん、彼女の色が混ざってしまう。
気がつかないところで、或いは故意に、純粋無垢な色を証明できない。

恋っていうのは、もっとなんかこう、不協和音でさえ聴き惚れてしまえる滑稽さとか、無闇矢鱈に一喜一憂する軽率さとか、聴いたことないロックバンドを聴き始める愚直さみたいなものがある。
視界の彩度が鮮明とし、霧が晴れ、梅雨は明け、マフラーを巻いてあげたくなるものだ。


愛錠をかけることができたら、それを容易くすることができたら。


黒髪のその人と遠出をすることにした。
そのために新しい服を買った。トップスも、ボトムスも。
たぶん、洗車をして、ガソリンを満タンにして、髪をセットして、オシャレをする。
指輪も通すし、ネックレスも揺らす。
それでもあの香水はふらないし、あのニットは着ないし、あの音楽は流さない。

会いたいと思う人と会う代わりに、会えない人との可能性を自ら削ってゆく。
内面的ボディブローな自傷行為。
掴めそうな邂逅を胸に、届きそうもない恢復かいふくを背に。


最終的に、食べきれないサイズのホールケーキを誰と頬張りたいのか。
誰の唇についた生クリームを拭ってあげたいのか。
決断するには早すぎるかもしれないし、もう既に遅すぎるかもしれない。



朝起きて一番に思い出す人とその自分の哀願に、縋ることにする。





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