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日本の閉塞感は本当なのか、思い込みすぎなのか。 フィリピン人の話できづいた日本の素晴らしさの話。

先日、4泊5日でフィリピンに行っていました。
日本にいると閉塞感がすごい感じがするのですが、一度、海外に出て外から見てみると、また違ったように見えてきます。

旅中も、いろいろな人と、今から生まれてくるなら、日本とフィリピン、どちらが良い?という話をしましたが、私も含めて、多くの人はやっぱり日本のほうがい良いんじゃない、という話をしていました。

若年齢が多く、これからまだまだ経済が伸びていくであろうフィリピンではありますが、それでもやっぱり日本の方がいいよなという意見が多数派だったように思います。

ただ、日本の中にいるとなかなかそれが感じにくいと言うのもあるのもわかります。

なので、今回は、日本の閉塞感は本当なのか、思い込みすぎなのか、というテーマで書いてみたいと思います。

また、そんな中でどうして言ったらいいのか、私はどう考えているのか、という点についても触れてみたいと思います。

人生をゲームと考えるなら

人生の中にゲーム性ってあると思います。

例えば、
・お金やフォロワー数、スポーツでのスコアなど、何らかの数を増やす。
・仕事でもプライベートでも、プロジェクトを成功させる。
・旅行をする際に、限られた日程の中で、全てのスポットを巡る。
・自分が好きなものをコレクションする。

などが浮かんできます。

これは人生をゲームとして楽しむことが全て良いという話ではなく、大なり小なり、人生の中にはゲームっぽい部分があるよねということです。

ただ、最近、日本で過ごしていると、この人生をゲームとして楽しむ、もしくは人生を単純に楽しむということの敷居や難易度が上がっているのかもなということを思います。

私が勝手にそう思っているだけかもしれませんが、ヤフーのコメント欄に連なる怒りのような、嘆きのような、一部悲鳴のような声を見るとそう感じられてくるのです。

もちろん、当事者には当事者の苦労があるのは間違いないでしょうし、私がたまたま色々な運が良かったから今はそう思わないで済んでいるところもあるのもまた間違いのでしょうが。

ただ、コメント欄に連なっている怒りや嘆きのような言葉を並べなくても良い部分もあるんじゃないかなとも思うのです。

人生にゲーム性や楽しさは必要なのか?


また、人生そのものにゲーム性を求めなくてもいいじゃないかとか、他にも楽しいものはたくさんあるじゃないかという意見もよくわかります。

例えば、プレイステーションやスマホなどのゲームはとても楽しいですし、ネットフリックスなどのドラマもとても面白いです。

RPGでも、パズルゲームでも、シミュレーションゲームでも、普通にゲームをしていた方が、夢中になるための工夫はいくらでもされていますし、失敗した時に傷ついたりする必要もありません。

それと比較すると、お金を稼ぐとか、フォロワーを増やすとか、なんらかのスコアを上げるとか、またプロジェクトで成功させるとかの人生のゲーム性を楽しもうとすると、ある程度のスキルがないと達成は難しいなと思います。

であれば、簡単に楽しめるスマホゲームや、ネットフリックスなどの方が楽ちんで良いじゃないかというのもよくわかります。

人生のゲーム性を楽しもうとすると難しさが生まれるというのは、周囲の簡単にアクセスできるエンタメの充実とともに、日本が衰退フェーズに入っていることも影響しているのかもしれません。

使えるお金が制約されてしまうとか、放っておくと暗いニュースばかりが目に入ってきてしまうとか、希望が感じにくいことも敷居を上げている1つの要因になっているのではないかと思います。

もしかしたら、バブル期のように(私は自分の体験としてバブルを味わったことはなく、人から聞いてのイメージですが)、みんなが湯水のごとくお金を使ったり、みんなで一緒に人生を楽しもうという勢いがあった時であれば、もっと簡単に楽しめる状況があったのかもしれません。当時は、人生の中でのゲームの難易度がそれなりに低いところにあったのではないかと想像します。

ゲームやドラマと比較すると、人生というゲームは、夢中になるには難易度が高く、また面白さの幅が広く、頂点も高いが、底辺も低いと言えるのかもしれません。

一方で、最近の私の活動を考えると、とりあえず、目の前にやってくる課題をクリアすることを楽しさを味わうことができていて、これはデジタル空間でゲームを楽しむのと比較すると、得られる刺激は何倍にもなるのではないかと感じています。

もちろん、私もゲームやドラマ視聴は好きで、たとえば、年末年始でプレイしていたドラクエ3もめちゃくちゃ面白く、夢中になってやっておりましたし、地面師もノンストップで見ておりました。

ただ、ドラクエ3をプレイしていた時の私が味わっていた感覚と、今私が目の前の課題をクリアしている時の興奮とを対比すると、どっちが面白いなと思いますかと聞かれたら、リアルの方が圧倒的に、刺激が多様であり、深いように思います。

逆に、ゲームやドラマばかりで1日が終わっていく人生はどうですか?と聞かれたら、私の場合は、ちょっとそれは今はまだいいかな、たぶん、飽きてしまいそう、という気持ちになります。

人生というのは、うまくいかないと辛いものですが、これもまた1つのスパイスになってきますし、上手く行った時の面白さたるや、これ以上のものはないよなということを思うのです。

フィリピンに行って感じた日本のゲームデザイン


先日、フィリピンに行っていた時にもまた改めて強く感じましたが、日本は衰退が始まったとは言え、日本人で生まれてこれたということは、まだまだ、まだまだ圧倒的な価値を持っているなということを思いました。

例えば、以下が挙げられるのですが、

  • どこに行っても本当に安全できれい。

  • パスポートは強く、いろいろな国に、そのまま入れる。

  • 何を食べても安くて美味しいし、その種類もとにかく豊富。

  • 自国にいながら、さまざまな種類のエンターテインメントに母国語でアクセスできる。

  • グローバルでみたら、まだまだ賃金水準は上から数えた方が圧倒的に早い。

  • 世界的に知名度があり、価値を出している会社や組織がまだまだたくさんある。

  • 治安がよく、戦争の被害に直接会うことはまずない。

  • 学習するための環境はいくらでも揃っている。

  • 何かを始めようとしたら、圧倒的に低い金利でお金を貸してくれる(ようやく多少上がり始めているがそれでもまだ圧倒的に低い)。

などなど、これらを持っているステージでプレイが始められるというのは、とっても有利なことだよなと思います。

上記の要素は日本で生まれてくると、あまりに当たり前に持っているため、気づきにくくなっていますが。グローバルで見たら、これらを持っている国の方がはるかに少数派です。

たとえば、フィリピンは、たしかに若年層の人口は多く、これからまだまだ伸びていく感じがすごいですが、一方で、中にいる人たちに聞くと、以下のような回答が返ってきます。

  • たしかに若い人は多いけれど、教育の質が低いのもあって、人材の質も低い。

  • 単に人が多いだけだと、それはそれで問題が生まれることもある。

  • 政治が腐敗していて、積み上がっていくのが難しい。

  • 英語が使えるので外貨は稼げても、国内に大きな産業や会社がないから、良い雇用に辿り着こうとすると、競争が激しいし、自国でそれをするのは難しい。

と言った感じでしょうか。

どの時代の、どこの国に生まれてくるかで、人生の中にあるゲームの難易度は大きく変わってくるわけですが。

2025年の日本は、これまでと比べると若干、ハードモードに変わりつつあるとは思いますが、それでも全体で見たら圧倒的にイージーモードでスタートできる場所だよなということを感じます。

日本でのゲームを楽しむコツ

上記で日本はまだまだイージーモードではないかと書きましたが、ただ、このイージーモードで人生のゲーム性を楽しむためには、ちょっとしたコツがあるかなとも思います。

例えば、この国の伝統的な価値観が時に呪い化することがあると思いますし、特にここ最近で言えば、多くの場所で語られていることから、片足抜けて、違う情報の取り方をしないと、希望が見えなくなること、また、その環境で成果を上げるための新しい攻略法を生み出すことにあるように思います。

さらっと書いていますが、それぞれ1つ1つが相当に難しいこともよくわかります。

でも、これができるようになってくると、これまでとは別次元で人生というゲームの醍醐味を深く、強く味わうことができるようになるなと思います。

本当にこの時代の日本に生まれてこれたことには感謝でいっぱいというのが正直な気持ちです。

私の場合、日本の素晴らしさを感じているが故に、このちょっとしたポイントを掴めずに、この楽しさを味わえていない人を見ると、ちょっと寂しい気持ちになっていくというのはあるなと思いました。

もちろん、今の日本が大変なことは間違いないのですが、でも、多くの人が思っているほどに大変かというと、たぶんそんなことはないんじゃないかなというのが私の見ている景色です。

タイトルに戻ると、「閉塞感はすごいですが、思い込み過ぎ」というのがあるように思います。

世界を見渡せば、もっともっと大変な人の方が圧倒的に多いですし、日本人はほんのちょっとの工夫で、今よりも良い状態を作れるはずであることがわかるからこそのもどかしさを感じるというのが、今の私の持っている感覚です。

閉塞感を学びで打ち破るというチャレンジの面白さ


実は、昨日、今日と、偶然にも連続で、私のところにありがたい言葉が届きました。それは、個人からと、組織からと、どちらもからもいただいたものになります。

簡単に言えば、「ものの見方を改めて、自分たちが取り組む仕事というプロジェクトを見直すことで、とても前向きに楽しめるようなった」と、そういった言葉としてまとめられるかなと思います。

もちろん、これはものの見方を改めただけでできることではなく、本人たちが一生懸命にやっているからこその部分があるのは間違いありません。それを私が少しだけ支援させてもらったという感じでしょうか。

ただ、こういった言葉をいただけるのは、まさに私の活動の動機の源泉であり、根幹そのものになってきます。

私が人の学びや成長にこだわって活動しているのは、このためにあると言っても良いかもしれませんし、この言葉をもらうために、人生というゲームをプレイしていると言っても過言ではないなと思います。これは、本当に、本当に、ありがたいことだなと思います。

言葉をいただいてありがたいなと思うからこそ、これを少しでも多くの人に広げていけたらとも思ったのです。

日本の平均的な人たちは、本当に真面目で、一生懸命にやっているのがわかるからこそ、あとちょっとの工夫で報われる部分があると思うので、それが叶っていったらいいなという気持ちです。

まとめ

以上、自分で書いていても偉そうだなと思いますし、別にみんながみんなこうは思わないということもあるだろうなと思います。

特に、ここ最近は、努力できない人もいるという事実から、こういった形で努力で何とかしようということを言うのも避けられている空気があるようにも思います。

が、この空気にモヤモヤしている人もいるのではないかと思い、教育という領域で活動している人にはきっとわかってもらえる部分があるのではないかと思い、昨日、今日の体験を通じて、感じたことを書いてみました。

最近、どこのクライアントの組織で話をしていても、みんな、心の根っこでは、自分や自分たちの人生をより豊かに、楽しく過ごしていきたいと願っているように感じています。

それを感じているからこそ、私個人としては、引き続き、日本の閉塞感にとらわれずに、自分の人生の中のゲーム性を楽しめる人が増えたら良いなと思いますし、また私自身のゲームをもっともっと魅力的なものにしたいと思うので、がんばってやっていきたいと思っております。

今後、閉塞感を破るために果たしていきたい自分の役割とは?


そのために果たす役割というのは何なんだろうと考えると、浮かんできたのは、人生というゲームをより深く味わうためのトレーナーという感じでしょうか。

少年野球でコーチが、投げる技術や打つ技術を教えてくれ、野球の楽しさを伝えられるようなイメージで、人や組織に人生を楽しむための技法を伝えられるような役割が必要になっているように思います。

そのためにも、私自身が、もっともっと異なるものの見方を獲得していくこと。これを通じて、人生のゲーム性を楽しむための学習スキルや、自分たちに必要な学習をデザインしていくメタ学習スキルの向上法についてより深く知り、実践を通じながら、考え、この道を極めていく必要があると考えています。

これが、今後の私が担うべき役割なんじゃないかと思うので、今後も日々、意識を向けながら、大切に過ごしていくしかないなという気持ちです。

これに共感してくれる方は、ぜひ一緒にやっていけたらと思っているので、コメント、メッセージなど、お待ちしております。

今日も素晴らしい学びの機会をどうもありがとうございました。


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きづきくみたてnote 森本康仁
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