『講義室の幽霊』 エキノコックス
詩誌Wonder第2号に、詩友のエキノコックスが『講義室の幽霊』で参加している。
講義室の幽霊
、君が学校辞めてコンビニ店員に転生した四月。
もうどうだっていい。
講義室には、君の幽霊が突っ立っている。
私は君の視界に切り取られる。
君が錆びた棚の本をちょっと倒す、グレーと音立てて本が落ちる。
かつての海を埋め立てた人口陸地にも桜は咲いて
その下には君も海も埋まってる。
すると君は地底人
いいやあの世人
私が消えても朝は来るような
いいや私に朝は来ない
カニカマが蟹ではないように?
なんでもいいんだよ
私の言葉が君に届かないように?
君が泣いていてもいい
泣きたいときに泣けばいいうんと泣けばいい
そのあと一緒に笑おうよ もうどうだっていい。講義室には今日も君の幽霊が立ってる、
(原文)
エキノちゃんから草稿を見せてもらった時、「どうして読点で始まり、読点で終わるの?」と尋ねたら、「詩には始まりも終わりもないから」という答えが返ってきた。エキノ詩は難解だと、以前は思っていたのだが、意味を辿ろうとするから難しいのだろう。彼が伝えたいのは、というか、そもそも伝えようという積極的は意志はなく、脳裏に浮かぶ泡のようなものを言葉に置き換え、それが誰かに受け入れてもらえたら何より、という書き方なのかもしれない。
この詩は、同級生が退学してコンビニ店員になったことを発端として書かれている。面白いのは「君」と「私」を置き換えたとしても、詩の持つ世界が変わらない点である。この一作品だけで判断する事は危険だが、エキノ詩にとって「君=私」なのかもしれないという視点から、今後彼の詩を読んでみたい。「もうどうだっていい。」が、はじめから2行目、終わりから2行目に繰り返され、後の方は、「もうどうだっていい。」と記した上から取り消し線が引かれている。「どうだっていい」思いと「どうだっていいわけではない」思いが、彼の中で共存しているということか。そのいずれもが同じ比重で。「私が消えても朝が来るような/いいや私に朝は来ない」にも同様の見方ができる。
彼は恋をするとき「男性とか女性とかいうのでなく、その人そのものを好きになる」と話してくれたことがある。意味とか枠に捉われないのが、エキノ詩の魅力だと最近気がついた。
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