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詩誌『火皿』21

昭和38年発行の広島の歴史ある詩誌『火皿』を夫が持っていたので驚いた。高校1年生の時、書店で購入したらしい(夫は私より12歳年長)。『火皿』は同人の高齢化で既に解散したが、私もかつて、二度(20代、一旦やめて40代)所属していた。
20代の時、今は亡き主宰の助信保先生が私に向かって、「あなたはサンクチュアリに生きているね」とおっしゃったことがある。その後いただいた年賀状にも「あなたのサンクチュアリを大切に」と書いてあった。私のサンクチュアリって、何だったのだろう?若すぎた私には、自分が見えていなかった。
昭和38年の『火皿』掲載の助信先生の詩をご紹介いたします。

とむらい
                助信 保
新らしい建物が生まれるためには
あれだけの手術が必要であったのか
あれはよく晴れた朝の午前八時十五分
私は河辺に立って
青空に浮かんだ二機の銀翼を
帽子を右手にかざして眺めていた
突如背中をおおった黒い熱風
私は驚いて帽子は奪われ
大きな建物のかげにかくれた
ゴトン ゴトン
上を向いてみると
内側の階段が窓から飛び出し
私の背上を越えて
片端を大地についていた 
防空壕にとび込んでみると
前の河で
泳いでいた友人の背中はくろこげ
丘に立って水に入ろうとしていたものは
褌の後が燃えたいた
又とび出してみると
広島城は既に黒煙の中にあり
牛田の山が火を放っていた
南を見ると
髪を振り乱し
真白い乳まで出して
シャツをさかれた女学生の群
責任上私は天体望遠鏡をとりに
建物の奥に入って行ったが
煙と炎が廊下に伝っていて
これはもう無理
人声のかすかにするのをさがしてみたら
倒れた壁の竹の中から
一部刈の髪だけがのぞいていた
もう既にあたりに火は廻っていて
頭を垂れて掌を合わせるだけだったが
帰りの竹薮の中は
火ぶくれの人の群と悪臭の高まり
けれどもぼろぼろに焼け下ったひふをひきずり
手は一所懸命のびていた
あれからもう十八年
或は永久に 
少なくとも七十五年間は
人が住めず草も生えないと言われた
此の広漠たる焼野原に
緑が育ち
コンクリートの建物があたりに聳立ちる

此の公園の中で
僕等は今静かに
かっての死者を葬っている

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