見出し画像

【ソシガヤ格闘記】SSIRの読書会を通して感じたこと

お久しぶりです。
祖師谷・砧を盛り上げるために活動するキザシプロジェクト。
現在は祖師谷・砧地域の歴史や文化を探究する活動と、同地域に住む人たちが気軽に繋がり合えるきっかけづくりをテーマに活動をしています。

この度、SSIR(Stanford Social Innovation Review)日本版のキャンペーンに参加し、読書会を開催しました。自分も一愛読者としてSSIRを齧り付くように読んでいた過去があり、noteを見た瞬間、即座に応募しました。

今回は、勉強会を行なった背景から、実際に行った様子や省察なども含めて、記します。

なお読書会では、SSIR(Stanford Social Innovation Review)に記載されている『コレクティブ・インパクト : 個別の努力を越えて今こそ新しい未来をつくり出す』を中心に読み解き、そもそもSSIRの言う『コレクティブインパクト』とはどういったものか、について自由に意見交換しました。

開催の背景と思い

開催の背景には、自分の個人的な悩みと疑問が強く関係しています。

少数のプレイヤーで進めることへの限界

これまで祖師谷、砧というざっくりとした地域を対象に取り組みを進めてきました。その中で、ある程度の結果を出すことはできたものの、個別の努力だけでは限界があることを痛感していました。

色々な場に顔を出して、つながったら面白いであろう人たちを繋ぎ合わせ、イベントや取り組みを実施する。子ども縁日や街掃除など小さな企てを通して、素敵な出会いをコトコトと煮込んできました。ただ、これでは少数の人たちの努力量に比例する結果しか出せない。そんな漠然とした不安がありました。大学や病院など多様なステークホルダーが存在する中で、これらをどのように結びつけ、持続的で大きなインパクトを生み出すかを欲していました。

関係づくりと効率性の両立の難しさ

街の中での「知らない人を繋ぎ合わせる」という時間がかかること、かつ抽象的なアジェンダに対して、どこまで解像度を上げるかも悩みどころでした。

  • そもそも知らない人たちがつながって何がメリットになるんだろう?

  • そもそも何も関係のない人が、場所という軸に縛られて、つながり合うことにどんな意味があるのだろうか?

  • スマホやSNSが普及した中で、対面で会う価値ってなんだろうか?

これらの問いが活動の中で生まれていました。

学問的な見地から問いを俯瞰し、事例としてどのような失敗/成功事例があるかを共有することは不可欠だと判断しました。教材を読むのではなく、今回の題材を通して、参加者同士で言葉を紡ぎ出すこと、これこそが読書会の最大の趣旨です。

特定のエクイティ、北極星となりうるものってなんだろう?

コレクティブインパクトの中で、大切になるもの。
それがエクイティです。なんのために、誰のために、何を目指すのか。
間違えなく不明瞭なまま、ここまで活動を続けてきました。

しかしエクイティが不在なことが問題なのではなく、その根底の部分に本質が潜んでいると考えます。エクイティ自体を絶対に必要としない環境が存在することに対する可能性、コレクティブインパクトで進める必要性が果たしてあるのかという可能性、なども視野に入れなければなりません。

今回コレクティブインパクトという記事を選んだのも、我々の絶対的なモデルとしてコレクティブインパクトがあるわけではない、という前提があります。一つのモデルとして客観的に見ることで、自然とエクイティなり、北極星なりうるものも現れてくるのではないか、という無為自然たる考えを抱いていました。

勉強会の概要

読書会には、異なるバックグラウンドを持つ5名が参加しました。
元々プロジェクトに参加していたメンバーをはじめ、隣町からもまちづくりを実践している方をお呼びして開催しました。

事前に参加者の方にお願いしたこと

繰り返しですが、今回の目的は、教材を通して言葉を発露すること。
本図書の『システムリーダーシップの夜明け:変化を起こすのではなく、変化が生まれるように導く』の記事を事前に読んでもらった上で、議論を進めました。

上記の記事では、システムリーダーシップのスタンスを著述されています。これまでの個別の取り組みから、システムの変換に至るまで、どのような経路を辿って変化を誘発するか、などに関して順を追って説明されています。

「自分も変わるべきシステムの一部なのだ」と気づかせ、それぞれが変化を起こせるように導く存在―すなわち、システムリーダーが必要だ。

本文中より引用

参加者に対して、強烈な当事者意識を持ってもらうには打ってつけの記事だと判断しました。

その上で、『コレクティブ・インパクト : 個別の努力を越えて今こそ新しい未来をつくり出す』の論文を各自で精読し、気づきや疑問点をA4用紙にまとめました。最後に、全員で意見を共有し、気になった点も含めて共有して終了としました。

発見と意外な「言葉」との出会い

会の中で全てを共有するのは難しいため、読書会を通じて気になった言葉を抽出します。

コレクティブインパクトってそもそもなんだ?

冒頭では、コレクティブインパクトって何か、という話を整理しました。コレクティブインパクトを直訳すると、「集合的なインパクト」であり、実態を表す言葉にすぎません。

会議が始まる前に、便利ワードは便利だけど、使い方を誤ると思考を放棄することにも繋がるから危険、という話からスタートしました。そのため慎重に言葉を定義し、議論を進めました。

参加者によるメモ

記事内では、言葉の定義を以下のように定義しています。

コレクティブ・インパクトとは、異なるセクターから集まった重要なプレーヤーたちのグループが、特定の社会課題の解決のために、共通のアジェンダに対して行うコミットメントである。コラボレーション自体は特に目新しいものではない。

記事内の言葉を引用

個別の取り組みに個別で対処するあり方をアイソレーテッド(個別的)・インパクトと称し、対照的なモデルとしてコレクティブインパクトを描き出します。

このアプローチ(アイソレーテッド(個別的)・インパクト)では、1つの組織で完結できる解決策を見つけ出して資金を提供する。そこには、「最も効果的な組織は、組織の規模拡大や活動の複製・再現によって、インパクトをもっと広げていけるはずだ」という期待もある。そして資金提供者側は、実験室で病気の治療薬を発見するのと同じように、「崩れつつある学校のための治療薬」があって、それを見つけさえすればよいとでもいうかのように、より効果的な介入を探している。

記事内の言葉を引用

複雑な問題において、個別の団体がそれぞれが抱く正解をもとに、最適解を探そうと努めるアイソレーテッド(個別的)・インパクト。自然と競争原理が働きやすいため、それぞれのやり方自体に正解・不正解のラベル付がなされてしまう、という構図が生まれてしまう。

これらの記述は非常に面白く、納得感があるものでした。

その上で、コレクティブインパクトって現状どうなっているのか、という声が上がりました。コレクティブインパクトの概念自体は決して新しいものではなく、現在もそこまで変わっていないのか、コレクティブインパクトが指し示す対象はいかなるものなのか、などが気になる点として挙げられました。

参加者によるメモ

一連の対話の中で重要な問いとなったのが、「複雑な課題ってなんだ?」という問いです。

記事内では、事例として、公教育の改革、湿地帯の環境回復、地域住民の健康改善などを事例と捉え、複雑な課題と設定しています。これらの問題は、特定少数の団体や人のみでは解決が不可能であり、Wicked Problemと言われるように、単なる解のみで瓦解することが難しいです。

しかしローカルな文脈で、限られた対象の中で、人と人を繋げることを目的とした場合、違う問いの設定の仕方が想定されうるのではないでしょうか。解は一つではないという点は共通ですが、全員が連携して一致団結するコストを取り持つ必要もないのでは、という見解があがりました。

加えて、システムや制度レベルで変容を促す場合、単にローカルな場だけでのコレクティブインパクトでは、より広範なクライテリア(世田谷区全体、県全体など)の取り組みと相反する可能性も孕んでいます。その場合、全体で見た時の、個別最適としてのコレクティブインパクトと言っても過言ではありません。

排泄と摂取が循環的に生じる組織体

上記の組織イメージから敷衍する概念 / 代替案として上がったのが、生態系としての組織です。すなわち排泄と接種を循環的に繰り返すことができる組織を作っていくことなのでは、という意見が出ました。長い歴史の中で、人を動物、生命体の一種として捉えるならば、生存戦略に則って、組織全体を生物原理で捉えた、根本的な指摘だと感じます。

参加者によるメモ

また課題やエクイティ自体も変化するものであり、課題がそもそも定まった形で存在しないことを認知すること、すらも大切なのでは、という意見も生まれました。

本人自体を示すものの境界線があやふやになる中で、「本人とは何か?」といった議論ですら慎重になる必要はありますが、本人との対話の選択肢自体を増やしていくことは求められていくべきところなのかもしれません。

文化、歴史といった結節点の重要性

会が進む中で、参加者の一人である、まちづくりセンターの所長がぼそっと呟いた言葉も印象的でした。

人と人、人と文化、人と歴史など、交差するきっかけを作るのが大切だと改めて感じました。でもそれって、まさに自分たちの役割じゃんって、立ち返った気がします。

まちづくりセンターの所長が述べた言葉

印象的なのは、「自分もシステムの一部である」ことを自覚することを示した言葉であることです。概念と自分の存在が繋がり、振り返ってみたときに、自分たちのアクションに再帰する、そんな瞬間だったように思えます。

まちづくりセンター所長のメモ

この点に関して、後から俯瞰して、気になった点が2点あります。
1つは、人と人という人間関係のみならず、文化や自然といった拡張概念、周辺概念に対する意識も向いたという点です。

参加者によるメモ

勉強会の最中で、途中盛り下がるシーンがいくつかありました。コレクティブインパクトとはいえども、それって現実的にありうるのか、と。実態として、家庭や仕事をする中で疲労が溜まり、それ以外の活動に取り組みインセンティブとモチベーションはどこから来るのだろうかと。

いざ街を見てみよう、人々は街で祭りで踊り狂っている、人々は畑で何かを耕している、そんな風景が増えているではないか。これらから言えることは、人間が動物的感覚を取り戻すことが鍵になるのではないかということである。

参加者による発言

近年祭りやグリーンツーリズムが台頭していく中で、人間の動物としての感覚を取り戻すことへの欲求が揺り動かされている感覚を受けます。養老先生の「脳化社会」へのアポロジーとして、位置付けられる身体感覚に対する経緯が増えてきたように感じます。都会に住んでいると、尚更です。

会の中で出た、自然を感じる象徴やアイコンたちが、全て地下化、無線化したことによる寂しさも根底にあるのでは、という発言も幾分の示唆をもたらしてくれます。都市が便利に、どんどんものが均一化されていく中で、少し汚れたものが消えていく感覚。祭りや民俗といった文化は、そのような人間的な汚さを取り戻す記憶装置なのかもしれません。だからこそ、そういうものをきっかけに繋がりを作ることができるのでは、と感じます。

出会いの数を増やすことも手段でなく、目的?

もう1点、まちせんの所長が仰った言葉を皮切りに、それが出会いの数を増やすこと自体も目的になりうるのではないかという点も俎上に上がりました。

出会いの数を増やすこと自体は、なんらかの目的に対する手段として捉えられる傾向にあります。ただ増やすこと自体を目的に昇華し、それに特化しても良いのでは、という考えでした

単に顔を合わせて話し合うといったフォーマットのみならず、応援を資金で示すクラウドファンディングや、自分が商品の宣伝アイコンになるSNSマーチャンダイズなど、会話の仕方自体も増えています。

これらの方法に対する許容性、かつ想像性を有し、本人と対話するチャンス(機会)自体を増やす。これこそが僕たちが明日から実践できることなのかもしれません。

長々と話してきましたが、とても充実した勉強会となりました。
もっとたくさん書きたいこともありますが、今日はここまで。
どこかで続きや、他の箇所についても言及します。


今回このような機会を設けていただいた英治出版の方々、場所を貸してくださった祖師谷まちづくりセンターの方々(主に所長の皆川さん)、そして参加してくださった方々、最後まで読んでくださったあなたに感謝を込めて、文を締めたいと思います。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?