ファンと名乗っていいのか不安だった
ファンってなんだろう。
思い返すと、小学生くらいからその問題に私はぶつかっていた。
クラスの女の子はみんな「きらりん☆レボリューション」や「オシャレ魔女・ラブ&ベリー」にハマっていて、私もその1人だった。
みんながその話をしていると「あ!それ私も好き!」と言って会話に入るも、誰かがもっとコアな情報を持ち出すと、知らないことばかり。
好きと思ったけど、全然知らない。だからみんなより好きじゃないのかな。好きって言って、ついていけてないの恥ずかしいなあ。
そう心のすみっこで感じたこの時から、始まっていた。
私は何かに好きを極めることができない。小さい頃はそれが異常なことだと思っていた。お金も身も心も全て飛ばしてしまうほどの 好き でなければ好きと言えないんじゃないかと思っていた。
だからいつも、「〇〇ちゃんほどではないんだけど、ちょっと知ってるよ!」とか、「興味あるんだよね〜」と自分の好きを下げるスタンスをとるか、そこまでの労力をかけてまでの好きではないのに大好きなフリをするかの、どっちかだった。後者はすぐにバレるんだけど。
癖がついてしまったのだと思う。ちょうど好き、に標準を合わせることを無意識に否定するようになった。
その癖は、高校生になるときに私を苦しめた。自分の進路を決めるとき自分が何をしたいのか、何が好きなのかわからない。昔から絵を描いていたし、と思って「私は絵を描くのが好きなんだ」と言い聞かせ芸術系の大学の見学に行った。
そこではデッサンを先生に見てもらうコーナーがあり、大きな画板を持った学生たちが並んでいる。同じ高校出身の友達同士で来ていることが多いみたいで、楽しそうに談笑している時にチラチラと見える作品が私の描くものとは格が違った。
画板を持っていない。その時点で心が落ち着かず、どこを見ても上手い人ばかり。1時間ほど待って、先生からもらったアドバイスは、「うーん、まずね、試験までに合格レベルのデッサンをするなら夏休みは毎日一日中デッサン教室に通った方がいいね」だった。
今となってはいい打ちのめされ方だったと思う。こんなにも絵の上手な若い人たちがいることや、自分の実力がなかったことを知れた。
ただこの時の私はこう思ってしまった。
一日中絵を描くほどは好きではないから、絵を描くことが本当は好きじゃないんじゃないか、と。
好きで入った卓球部がスパルタすぎて、卓球が嫌いになっちゃいそうで辞めた時も、卓球が本当に好きなら続けられるでしょ?と心の声はチクリと刺してきた。
社会に出て、推しという存在ができた時もそうだった。
周りの人はお金を稼いで、推しに貢いでいる。けれど私はYouTubeを見たり、ちょっとしたイベントカフェに行くことはしても、グッズは買わないし、ファンクラブには入ってない。それなのに推しだなんて言っちゃっていいのかな?
いつも誰かに標準を合わせて「好き」を語っていたツケがまわっていた。
そんな時に、友達がこう言ってくれた。
「お金を貢いで無くても、時間を貢いでるんじゃん!」
あ、なるほどなあ。そういう考え方もあるのか。
時間を割いているということは、それだけ心が惹かれているということ。
誰に強制されるでもなくその人、その事、その物を考えている時間というものは、世の中と比較するのではない、自分の中にある基準で揺るぎないものなんだなあ。自分の中の基準って、なんだかすごく安心する、、。
ちょっとでも、心が動いた時間があったなら。そのことについて考えてしまうのなら。お金をかけていなくても、知識不足でも、ちゃんと好きである。好きの程度も形も色々あったとしても、好きである。そう私は考えることにした。
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