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中先代と信濃宮、諏訪神党が支えた敗れざる者たち その③

信州における北条時行の痕跡と言えば、大徳王寺城にほかならない。
関東から畿内まで活動範囲の広い北条時行の、唯一とも言える信州での痕跡が大徳王寺城であるのだが、この城とここで行なわれた戦いについては、それを証明するような確実な資料がないために、幻の城・幻の合戦とされることが多いようだ。
幻の城ではあったとしても、北条時行の痕跡の残る城となれば、訪れないという選択肢などはないのである。
大徳王寺城は、戦国期の高遠城にほど近く、伊那谷の戦略上の重要拠点に位置していたのであろう。
杖突峠を越えて諏訪地域と、分杭峠を越えて大鹿村・大河原城とを繋ぐ要の位置に、大徳王寺城はあった。
大徳王寺城の廃城のあとには、北に位置する高遠城が代わってその役割を担ったのであろう。
三峰川の水面が今ほど上になかったとすれば、河岸段丘崖を利用した堅城であったのかもしれないとも思うが、それを突き止める術はないようだ。
現在では、三峰川に造られたダム湖が、昔の街道や村々を水底に沈めてしまい、往時の姿をとどめてはいないからである。
北条時行が潜んでいたとされる集落もまた、水底に沈んでしまっているようである。
大徳王寺城の縄張り内と思われる場所に、宗良親王の墓があることから、この城への親王の関連も想像されるが、その墓の存在は謎に包まれている。

大徳王寺城址比定地から、三峰川ダム湖方面

山間の辺境にある信州、とりわけ衰亡の道を辿った南朝方の動向については、正史は特段の興味を示さなかったと見えて、地元ではあったと伝承されている合戦や城郭、そして、いたと伝承されている人物についても、立証することの難しいことが多くあるようだ。
大徳王寺城とそこで行なわれたとされる合戦、塩尻・桔梗ヶ原での合戦、大草城での攻防戦や、宗良親王の子・尹良(ユキヨシ)と、尹良の子の良王治良の存在などがそれである。
歴史は勝利者を賛美するものであるから、歴史的に敗色に彩られた南朝方の、宗良親王や、彼を後押しした香坂氏・諏訪氏などの抵抗の足跡は、伊那谷の深い霧の中に閉ざされてしまっていると言えよう。
宗良親王の事績や、信濃での彼の関わる合戦については、そのほとんどが、たぶんあったのだろうという推測でしかない。
実在が疑われ、年代も特定できず、おそらく南朝方が敗けたのであろうという推測のみが、歴史として組み込まれている。
大徳王寺城での戦いは、宗良親王の信濃入りに合わせて、北条時行が城に入って挙兵し、近隣から諏訪頼継(直頼)が駆け付けたとされる、
信濃の南朝方の三巨頭そろい踏みのような戦いであるものの、その城跡の所在さえも公的には不明とされているようだ。
大徳王寺城に比定される領域で、宗良親王の子・尹良親王が建てたとされる父・宗良の墓石が発見されているものの、そもそも宗良親王が、大徳王寺城にどう関わっていたのかもよくわからない。
なぜ大徳王寺城の城跡に、宗良親王の墓石が置かれていたのであろう。
そもそも尹良親王という人物自身が、その実在性を疑われている部分もある。
尹良親王の子・良王治良にいたっては、もはや創作だろうと見做されている。

大徳王寺城址比定地そば、宗良親王の墓所

信州には、尹良親王の子・良王治良という人物が、望月光経を頼って古舘王城にて挙兵したという伝承も残り、
火のないところに煙は立たぬで説明すべきか、嘘の上塗りで説明すべきか、一概に決めつけることは出来ない。
敗者として覆い隠された南朝方の将や城、そして合戦の存在は、勝者の歴史の影にあって、実在・非実在の間を大きく振れ動いている。
外野の歴史家は、その実在性に疑問符を付けて終わりだけれども、そこに暮らしている人にとってみれば、紛れもなく実在だということもある。
歴史上、実在した人物も、そうでない人物も、遠い昔の記憶となってしまえば、もはや等しく観念的な存在である。
残されたものはただ、永遠に抗い続ける、敗れざる者たちの不屈の魂。
抗い続ける限り、敗れ去ることはない。
北条時行が再起を図った四度の挙兵、宗良親王の三十年以上に渡る拠点の維持、信州ゆかりの敗れざる者たちの、その光芒はあまりに美しすぎる。

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