春の生ぬるい
毎年この季節になると、どうやって春が来たときのこの独特な感覚を言葉にすれば良いのだろうとそればかり考える。
考えるだけで終わるのが通例だが、今年はついに言葉にしてみようと思う。理由はとある壮大な事情で、暇だからだ。
まず初めに、春の訪れはいつも少しグロテスクなのである、ということだ。この初春のグロテスクさというのは、生ぬるいことに起因していると思う。
からっとした暖かさではない。ぬるぬるした柔らかい風が肌をぼんやりと包む。何かに守られているような、気がする。自分はまだ大丈夫かもしれない、と、にわかに思うことができる。
それが春のはじまりである。
日本に春が来なかった年が一度だけある。その年、日本の自殺率は6.5倍に膨れ上がったとかなんとか。
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春の訪れを実感すると、決まって思い出すのは死んで間もない猫の死体だ。
最初は海辺の腐乱した魚かと思った。しかしそうではなかった。あの時の季節は定かではないが、しかしあの時の猫の死体が同じように生ぬるかったのは確かだ。
冬に死のイメージを持つ人は少なくないだろう。
まさに冬は、私たちの知らない間に、実にたくさんのものを殺している。これはただの比喩表現でなくて、本当に冬はたくさんのものを殺しているのだ。
草木は枯れ果て、虫は死滅し、浪人生は絶望する。
しかし、そういう季節だった、ということに過ぎない。
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そんな理由ーー冬に死んだものたちのまだ暖かい死体が埋まっているーーで、春は生ぬるいのである。
この理屈、いやシステムを知ってから、私は春が怖くなくなった。春の訪れの生暖かい風が気持ち悪くなくなった。
この世には春の訪れの生ぬるさに具合が悪くなり、大胆不敵な軽犯罪に走ってしまう人が一定数いる。
無防備な裸体に春物のコートだけを羽織って3月の街に繰り出す人は毎年後をたたない。しかし彼らの感覚は間違っていないともいえる。
なぜなら春は、少しグロテスクだからだ。
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話を戻すが、猫の死体は結局浜辺に埋めたのである。
猫が埋まった砂地にそっと両手を合わせたとき、やはり生ぬるかった。そしてその時も、守られている気がする、と思ったのだ。
命は循環する。それを知ったのも、この時だ。
雪が溶ける。微かに暖かい風が吹く。目を閉じる。何かを感じる。少し怖い。どきどきする。だけど嬉しい。
それはおそらく生命の息吹である。
おわり
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