普通がリスクになる。
数日前、ネットサーフィンをしていたらこんな記事に出会った。
ぼくがこういう記事を引用をするときは、なにか新しい考えに出会えたときではない。「ね、ほら。言ってるじゃん」、そういう「虎の威を借る狐」的発想が邪に働いているときだ。
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かつては、「普通」が安心材料だった。みんなと同じようなものを見て、同じようなものを聴いて、同じようなものを買って。同じような場所に通い、同じように勉強し、同じような選択を重ねる。それが(大抵の場合親にとってだけど)安心だったし、安全だった。
けれど、それは崩れつつある。気づいている人も多い。けれど気づかずに悩んでいる人は、もっと多い。ぼくがそれを強く痛感しはじめたのは、実は結構最近だったりする。
いい大学に通っていたり、いい大学を出ていい会社に入った人、ぼくの想像よりもずっと多くの人が、なんだかずいぶん人生について悩んでいるようだ、と知った。はっきり言って、衝撃的だった。
悩んでいる彼らはどこか「普通」であることに不安を覚えているようだった。「普通」さを脱するために必要な「自分らしさ」が、忽然と姿を消し、簡単には見つからなくなってしまったと焦ってしまっているようだった。「普通」はそんな表層的なものではないはずなのに。
いずれにせよ、いままで追いかけるべきだと教えられてきた「普通」さに、いつの間にか正しさを見いだせなくなっていることに気づいているのだと思う。だから彼らは不安になり「今のままではだめだ、こんな自分が嫌だ」と感じるのだろう。変わりたい、と、こんなにも多くの人が思っているのか、と、ぼくはずいぶん驚いた。「普通のリスク」を彼らが肌で(つまり直観的に)感じている結果なのだと思う。
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乙武さんはこのインタビューの後半で子を持つ親に必要なのは「勇気を持つこと」だと述べている。まさしくぼくも、3月8日の投稿に同じことを書いていた。あとはもう勇気の問題だ、と。
ヒナタヤを運営するぼくは「普通」の人間だ。表層的には変わっているかもしれないけれど、ぼくはとても「普通」の人間だと思う。兄や姉にも口を酸っぱくして言われる。だからヒナタヤは「日常と非日常の接続」を盾に、定期試験対策や入試対策も行っている。それをオリジナリティに設定した。
けれど、一方で、これが「過渡期」における、ぼくの勇気の持ち方だとも言える。改善は必ず改革につながる。それがぼくなりの現時点での仮説だ。
臆病なぼくでさえ、一歩を踏み出せた。不思議なのは、踏み出すと勇気が湧いてきたことだ。なるほど、勇気とは、決断のあとに湧いてくることもあるのだ。