頭と、手を動かす。
嬉しいことに最近高校生からの質問のレベルが高まってきたので、改めて勉強しようと昔使っていた参考書を引っ張り出した。
「この参考書がぼくにとってどういう存在か」を説明するのは、少し、むずかしい。つらい浪人時代に出会い、たくさん、それはもう本当にたくさんお世話になった。アリストテレスやケプラー、ガリレイ、デカルトなどの科学における役割だって、最初に学んだのはこの本からだった。
でも、肝心の受験には、失敗した。(笑)
ぼくの「学び」の記憶の多くはここ(と実際に予備校で物理を教えてくれた森下先生)にあるが、決して楽しい思い出が詰まっているわけではない。大切で捨てられないけれど、でもちょっと心の奥が痛くなる、そんな1冊だ。
思い出ばなしはさておき、久々に開いたこの参考書は、約10年の時を経ても、やはり自分に学びを与えてくれるものだった。
著者の山本義隆先生は「はじめに」の中で、この参考書を使う上での注意書きとしてこう書いている。
第一は数式を目で追ってはいけないということです。本書の数式は必ず手で追う、つまり自分の手で納得ゆくまで実際に計算することが必要です。
「新物理入門」(山本義隆・駿台文庫)より
当たり前のことを、当たり前に書いてあるだけだ。しかし、なぜだか目新しさを感じた。こうしたスタンスの「学び」が、まるで「教育の黒歴史」かのように、世の中から次々と排除され、消えていっているからかもしれないな、と、そんなことを思った。
近年の教育は、「わかりやすさ」や「たのしさ(≒楽さ)」がとりわけ重要視されている気がする。インターネットやスマートフォンの普及によって、わかりやすく、たのしいものがより手軽になっているからなのかもしれない。教育もまたそうであるべきだと、親も子どもも、そして教育者自身も、思っているのではないだろうか。
たしかにわかりやすさもたのしさも重要だ。しかし、わかりにくいことを提示し、そこに興味を引きつけることも、おなじように重要だ。無料のエンタメが溢れかえっているいまの社会において、わかりやすいことを提供することよりも、むしろ「わかりにくさと向き合うたのしさ」を伝えることが教育に求めらているのではないだろうか。
ぼくはこのテキストを片手に、エネルギー保存則や単振動の「公式」を、微分方程式を使って導出した。駿台の授業で森下先生が黒板で流れるように示してくれたそれは、美しくおもしろかったけど、でもすぐにはわからない、わかりにくさもあった。「わからんのなら、何度か自分の手でやってみろ」そう言われて愚直にノートに書き「あぁなるほど、そういうことか」という瞬間があったことをいまでも覚えている。
いまとなってはあのときぼくを惹きつけたものの正体はよくわからない。物理の本質的な楽しさだろうか(大学で物理をやることは一度もなかったが)、それとも先生の人柄だろうか(特に親しい付き合いはなかったが)。
いずれにせよ大切なのは、あの授業は「従来型の座学の極み」のような授業だったが、まさしくぼくはあのとき「アクティブラーナー」だったということだ。
巷では「わかりやすさ/たのしさ」の重要性と同じくらい、問いを持つことの重要性が叫ばれている。(あくまで当社比)
「問いを持つ」とはどういうことか。それは、知ったことの中から「考えること(=わかりにくいこと)」の種を見つけることだと思う。知るための方法はいま、たくさんある。けれど「知る」からだけでは、考えることはできない。「わかりにくさ」に立ち向かうことを伝えなければ、どれだけわかりやすく、たのしい種をまいても、「問う」人間は育まれないのだと思う。
陽向舎はその設立の背景(おでん屋&味噌屋でやっている)や、ぼくのバックボーン(24歳大学入学)から、なんだかとんでもなくエキセントリックな教育法を実施していると思われることが多い。実際、おでん屋に見学に来た人が、なんとなく拍子抜けしたように帰ったこともあった。
たしかに、うちはずいぶん地味で、「時代遅れ」で、保守的な教育を行っている部分が多くあるのかも知れない。でも、ここにわかりにくいことを楽しむ風土、文化のようなものが根付けばいいと思っている。
ぼくは、それこそが教育現場において最も大切なことなのではないかと行き着いた。これからも問い続ける。