『万引き家族』と「見捨てられない病」

映画を見終わって、ぼくは強い疲労感のようなものを感じて、もちろんつい最近起きた悲しい事件も思い出してしまって、しばらく席に座っていた。

平日の昼間の映画館は、9割以上が高齢者と思えるほどの平均年齢の高さだった。ぼくの隣に座っていたご老人の一行は、エンドロールが終わった途端に「日本の映画はエンドロールが短くていいね」「まあでも終わり方がちょっとねえ・・」と言って帰っていった。
ふと耳に入ったことばに過ぎないし、感想は人それぞれなのだけど、あの映画のテーマのようなものに「手触り感」を持てるひとって、平日昼間の映画館にはいないんじゃないかと、ふと、思った。あの映画を完全に二次元のフィクションとして観るか、「暮らし」がある日常の"invisible"なものとして観るかによって、感想は大きく変わってきそうだ。

余談だが、「終わり方」について話していたご老人のコメントを聞きながら、昨年末に是枝監督と落語家立川談春の対談番組を思い出した。談春は「わからないことを楽しめない人が多い」と言っていた。まさにそれが端的に垣間見えた瞬間だった。


夕方、ヒナタヤ(ぼくが運営しているおでん屋さんにある寺子屋)に行って小学校5年生たちにその話をしたら「え、内容は??内容は??ねえ、内容は!!!!」(まじでこんな感じ)と言うので、ホワイトボードに登場人物たちの人間関係を書き、おおまかなストーリーを説明した。(自分で言うのもなんですが、まじでよく説明したなと思う。)

見た人はわかると思うけど、映画の内容は割とシビア、というか、まあ重めだったので、あんまり気乗りはしなかった。けれど彼らは「もうその話をしないと算数なんかやらないよ」と言わんばかりに堂々とテキストを閉じたので、ぼくは自分の気持ちをあらかじめ正直に伝えた上で、話を始めた。
びっくりしたのは、普段常に騒がしい彼らが、説明を始めると静まり、複雑であるはずの登場人物の人間関係を割とすぐに理解した(どや顔付き)ことだった。家庭でのコミュニケーションや、家庭・学校以外のコミュニティがその理解のスピードに影響を及ぼしているのだろうか。あるいは、彼らはぼくらが思っている以上に「関係性」というものに敏感に生きているのかもしれない、とも思った。

いろいろ話したあとに、で、そもそもこれって家族の話なんだろうか、みたいなことを投げかけた。「彼らは家族なんだろうか」と。(詳しくはぜひ映画を見てください)「家族だ」という子もいれば、「家族じゃない」という子もいた。理由までは聞かなかったけれど、このように相対するふたつの意見が出たことは、教育の現場をつくっている端くれとして、とてもうれしかった。

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先日ある人にぼくは「見捨てられない病」なのだと言われた。
たしかにそうだと思う。目の前に問題があったならば、それを見なかったことにして通り過ぎることができない人間に、ぼくはいつしかなっていた。それは社会課題についてだけではない。あらゆることに対して、だ。
あるときまでそれはまるで素晴らしいことのように周囲に認められていたのだけど、段々と、そうしたものに縛り付けられている自分に気がついている。ときにそのナイーブさを「ダサい」と言われることもあった。
いま、ようやく「学生」という立場を脱して、ぼくはこの「見捨てられない病」と「闘病」しなければならないのだと考え始めていた。お金や自分の到達したいものやステータスや―。様々なものがたくさんの天秤にのっていて、危うく支柱さえもを見失いそうになる。

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映画の中で安藤サクラがこんなことを言った。

「捨てたんじゃない。わたしは拾ったんだ。捨てた奴は別にいるんじゃない?」(ニュアンス)

ぼくがこの映画を見て、しばし立ち上がれなかった理由は、たくさんの文脈が関係していた。