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おでん屋で「教育」について考えた①

神奈川県辻堂にあるおでん屋ひなたで運営している寺子屋「陽向舎
(ヒナタヤ)」では、毎月1回、誰でも参加できる公開授業を行っている。ぼく(きよと)が話したいこと、興味のあることを、ぼくやぼくの友人に来てもらい「深ぼる」時間であるということから「きよとの時間」と呼ばれている。(そろそろ改名したい)

「3Dプリンター」や「VR」「グラフィックレコーディング」などを題材に実際の機材を用いてワークショップのような時間になることもあれば、「選挙」や「お金」「農業」などコアなテーマでがっちり"講義"のような時間になることもある。いずれにせよこの時間は、自分で学びの場を運営しているぼくにとって、月に1度、そのやりがいを感じることができる、とても大切な時間だ。(この時間への思いについてはまたいつか書きたい)

毎月のテーマは気まぐれに決まる。テーマは所詮入り口でしかなくて、伝えたいこと(これはまたいつか)はどんな入り口からでもたどり着ける、と思っているからだ。
今月は「教育」をテーマに行うことにした。これも、たまたまとあるイベントで知り合った高校生に「Most Likeky To Succeed(以下MLTS)って映画、すごくよかったんですよね」と教えてもらい、内容を確認するとわりとおもしろそうだった、ということで安易にその上映会をしようと決めたものだった。

ぼくにとっておもしろい映画・ドキュメンタリーというのは、「ざらつき感が残るもの」だったりする。見終わったあと、誰かと思わず語り合いたくなるような、そんな映画が、ぼくは好きだ。その意味でMLTSは端的に「おもしろい映画(ドキュメンタリー)」だったと思う。あれが教育界隈でバズっている理由は正直なところよくわからなかったが、「論争」を呼ぶドキュメンタリーだな(呼んでほしい)、とは思った。

論点はいくつかあった。いや、数多くあった、とも言える。その中で特に自分にとって大切だな、と思ったポイントを書いておきたい。(もうDVDも返却してしまい、走り書きのようなメモしか残っていないので、引用したセリフはやや正確ではないかもしれない)

多くの教育者は心の中に完成図を持っているでしょう。

作品の中にこんなセリフが出てくる。このことばがなぜか強烈に心の中に残った。
作品の中ではどこか「否定的」に使われていたこのセリフは、このムービーの舞台となったHighTechHighではそうしたものがないのだ、と言っているようだった。けれど、ぼくにはどうもそうは思えなかった。あの映画そのものが、あるひとつの文脈の上に成り立ち、そこにそぐう人間、まさに「完成図」に近づく人間を育てている現場として、HighTechHighを取り上げたように思えたからだ。

MLTSの題材とも言える「プロジェクトベースドラーニング(PBL)」や探求学習は、近年「座学」というものに対置されるものとして一挙に市民権を得た。そのこと自体は決して悪いことではない。しかし、これらを「子どもたちが自由にのびのびと学ぶことができる学習法」と捉えることは、あまりにも短絡的だとぼくは思う。その多くは、結局は「偏差値」の代わりになる新しい評価軸を導入したに過ぎないのだと思う。それは決して忘れるべきではないだろう。プロジェクトには大小があるように論じられるし、明らかにオトナ受けしやすい(ストーリーとして見えやすい)ものが評価されてしまうことは往々にしてある。教育者が「完成図」を持っていない教育とはなんなのか、果たしてそんなことが可能なのかどうか、ということについてはきちんと考えたい。

少し話は逸れるが、例えば「座学のテスト」は「プロジェクト」とは認知されていない場合が多い。多くの教育関係者はPBLと対置して座学を置いている。(そもそもこうした言葉によって区別をつけていること自体が個人的には不思議だ)
しかしぼくからすれば「座学のテスト」も立派なプロジェクトの一種だと思う。範囲を確認し、前回まので振り返りとともにテストまでのスケジュール・自ら目標を決め、日々の進捗を考慮して軌道修正しながらテスト当日を迎える。テストが返ってくる前にテストまでの振り返りを行い、点数が判明したら振り返りは適切だったかを考え、次回のテストに向けての目標を考える――。
これぞまさしくPDCAサイクルであり、OODAサイクルだと言えるのではないだろうか。

ぼくは巷で言われている「PBL」を批判したいわけではない。子どもたちがそこから得られる教育的効果は大きいと思う。しかし、それらが「座学」と対置されたものと捉えられ、まるですべての子どもたちにとって、自由に学びを深められるこの「学習法」が適切であると考える風潮に、すこし違和感を覚えている。繰り返しになるが、変わったのはあくまで『評価軸』に過ぎず、オトナたちは依然として「評価者」のままであり、子どもたちはその「審判」を受ける立場だ。

この文章をパブリッシュするのに10日間もかかってしまった。このまますべてを書ききるのを待ってポストすると一生日の目を見ない気がするので、一旦この段階で投稿することにする。

続編に乞うご期待!(自らを追い込む)