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「女性らしさ」に従う生きづらさと、迎合する生きやすさ



「甘いもの食べいこう」ってナンパされた


突然ですが、過去にナンパされた話をします。

その方は気さくで爽やかな感じの男性でした。自分は「ナンパだから無理」って決めつけて、その人のことを何も知らないのに一蹴することはあまりしたくないと思ったので(明らかに不審そうな人や身の回りに人がいない場合等、身の危険を感じた際は逃げますが)少し歩いて喋る程度ならいいか、と思ってお話をしていました。

その方は私に、「甘いもの食べいこう」って誘ってきたのです。私は「なんで甘いものなんだろう?」と純粋に気になったので、「なんで甘いものなんですか?」って聞き返してみました。そしたら「いや女の子ってさ、甘いもの食べさせとけばいいみたいなとこあるじゃん?」という旨の返事。その言葉を聞いた瞬間、私はものすごく幻滅してしまい、それからは心を完全にシャットダウンしてしまいました。

(その後「ライン教えてくれますか?」と聞かれた際、「女の子に甘いもの食べさせておけばいいと思ってる男性には教えたくないです」と言って断ってしまったのは、ここだけの話です…)

「女の子」=デフォルトで肌がきれい?


再び話は変わりますが、今度は友人の男の子から「俺の方が肌つるつるじゃね?」と言われたことについて。

言葉だけを切り取ると、軽いノリで、そのときのシチュエーションを込みで考えても、彼が悪気なくそう言ったことは、私もよくわかっていました。けれど、悪気のないはずの無邪気な一言、私はそれを咀嚼すればするほどに悲しくなり、とことん傷つき、終いには泣き出してしまった。傷ついた、という旨を素直に打ち明けると、彼はとても素直に私に謝りました。

謝ってくれた、という表現を使うことを、ここではあえて避けました。私は彼に謝罪してほしかったわけではないし、そういうつもりで泣いたわけでもなかったから。

(その後、「本当に自分最悪だった、無神経なこと言ってごめん」と言って今度は彼が泣き出してしまったため、私が焦って慰める立場に大逆転してしまったのは、ここだけの話です…)

「女性らしさ」の呪縛が私たちを苦しめる


「甘いもの食べ行こう」ってナンパされたとき、急に心が萎えてしまったのはなぜか。

「俺の方が肌つるつるじゃね?」って言われたとき、自分が泣くほど嫌だと感じたのはなぜか。

考えてみると、これら2つの出来事には「女性らしさ」の幻想が強く絡んでいると思いました。最初のナンパした彼は「女の子なら甘いもの好きでしょ」という幻想に、肌問題の彼は「女の子ならデフォルトで肌がきれいなはず」という幻想に、縛られてしまっているように感じた。

もちろん、スイーツが心の底から大好きで、そういうものを食べることが幸せだと感じる女の子、たくさんいると思う。でも、それって女の子に限った話じゃなくて、男性にも甘いもの好きはいるわけで。

逆に、たとえば自分はおしゃれなケーキ屋でスイーツを食べるよりも、大衆居酒屋でチンチロハイボールを飲むほうが、どちらかといえば楽しいなぁと思っているので(メガハイボールを引き当てるとキツいけど)、そういう世間がイメージする「女性らしさ」とは違うものを好む人だって、めちゃくちゃ当たり前だけど、いるわけです。

化粧をする女の子の割合だって、男性に比べると圧倒的に多いです。だからこそ、「素肌を隠して綺麗な肌を作る」という点で、男の人が「女の子ならデフォルトで肌がきれいなんだ」と信じてしまうのは、ある程度仕方がないのかな、とも思います。それはその人自身の問題というよりは、世の中がやたらと「美肌!」「美白!」「女子なら透明感!」とかをもてはやす背景があり、原因はたぶんそこにあるのだろうから。

世の中で勝手に作られた虚構を、信じすぎないでほしいだけ


これらの出来事から、私が一番、悲しさやもどかしさを感じたこと。それは、世の中に蔓延る「女性らしさ」「女の子らしさ」が、必ずしも女性全員に当てはまるわけではないよ、という当たり前のことではなく、そういった「刷り込み」は思わず無意識の発言の中で出てしまうほど、私たちのことを想像以上に蝕んでいるのかもしれないな、という現実。そういった偶像は自分勝手であると思うし、人間としての本質的な部分、その人自身の魅力というものを、ものすごく不透明に、見えにくくさせている。にも関わらず、もう当たり前の常識みたいに、私たちの思考回路に根付いてしまっている。それがなんだか苦しかった。

そしてもう一つ、個人的に「わかってほしい」と感じたことは、私は「可愛くなりたい」「綺麗でいたい」といつも思っているけれど、だからといって、いつでもその「可愛さ」や「綺麗さ」を世の中が抱く「女性らしさ」に完璧に寄り添う形で実現させようという気はないし、そもそもそんなの不可能だよ、ということ。

ただ性別として「女」という種類があるだけで、それについて勝手に「女性らしさ」という虚構を作り上げられ、そしてそれを容易く信じてしまう世界、疑いを持てず自分らしさが削ぎ落とされていく環境が、悲しくて怖い。私は女性である以前に人間だから、排泄もするし、スイーツを食べ過ぎたら体重が増えるだろうし、ニンニクを食べるとニンニク臭くなるし、肌だって荒れることもある。女の子は常にいい匂いで、華奢で、スイーツ大好きで、美白美肌で男の子よりも綺麗なんだ、なんて、そんなことは絶対になくて。

私はそんな完璧じゃない自分のことを、そんなものか、と受け入れている。肌も荒れやすいけれど、まあ人間なんだし肌くらい荒れるでしょ、と思っている。綺麗でいたい、という思いはあるけれど、その理由が「女だから」では決してない。

女とか男とか関係なく、私は自分が気持ちよく生きられる程度に、自分のことを綺麗にしていたいと思う。自分の可能な範囲での「美しい自分」みたいなのを追求したいと思ってる。世間が認める女の美しさや可愛さに迎合するつもりはないし、それが正義だと思ってしまっている人はごめんだ、と思っていたけれど。悪気なく「女性らしさ」「女性とはこうだ」の呪縛に縛られている人が、想像以上に居るのかもしれない、その現実を実感したとき、私も諦めちゃいけないのかもしれないな、と思いました。

他人の考えや価値観を変えてやろう、という乱暴な思考はありません。でも、私がこんなふうに考えていること、「女性らしさ」が求められる苦しさがある、ということを、実は思った以上に世の中の人は知らないのかもしれないし、気がついていないのかもしれない。だからそれを、知ってほしい。そのためにも、幻想の「女性らしさ」ばかりが先走りするこの世界で、私はただ、自分の感じたことを発信すること、それだけは諦めない方がいいのかも、と感じました。その人たちを根っこから変えてやりたい!のではなく、自分にとって大切な人、自分が大好きな人たちさえも、もしかしたら気づいていないこと、信じきってしまった故に、埋もれて見えなくなっている視点があるのかもしれないから。

 

それでも「女性らしさ」に迎合してしまうときがある


最近では「あざとい」という言葉をよく耳にします。「あざとい」を取り上げたテレビ番組やそういった題材を扱う話を摂取するたびに、思う、私はただ自分らしく生きたいし、みんなもそうあればいいのに、と。

「あざとい」が語られるたびに少し心がざわつくのは、天然でも計算でも「女性らしさ」に乗っかることで、うまくいくことが世の中には多く存在しているな、と感じてしまうから。自分らしくありたいと願いつつも、世の中の「女性らしさ」に迎合するほうが楽に進むことがたくさんある。そして、私は「女性らしさ」に抗いながらも、時にはそれに上手に迎合して、今の時代を生き抜いている。そのジレンマに苦しくなってしまう。


小手先の「購入ボタン」を押す前に


それでも私は、自分らしくいることを諦めたくない。SNSにはたくさんの可愛い子がいて、可愛いお洋服やコスメがあって、そういった可愛いモノをたくさん揃えてメイクしたりおしゃれしたりする楽しさは、絶対にわかる。し、そういうことにお金と時間をかけて、可愛い自分になっていくのはいいことだと思う。

でもやっぱり、私はそこにバランスを保ちたいです。目先の結果、目に見えてわかる成果ばかりを求めるのではなく、もっと本質的な部分で「可愛さ」や「美しさ」を自分なりに実現したい。それは「可愛い」とも違うかもしれない、「女として」でも決してない、私はひとりの人間として、魅力のある人間になりたいと思う。それはもしかしたら一番難しくて、一筋縄ではいかないことなのかもしれないけれど。簡単にオンライン上で購入ボタンを押す前に、一度立ち止まってみる価値はあるような気がしている。

ちなみにお肌の話で揉めたとき、私はその彼が泣いたのがほんの少し嬉しかった。「男なら泣くな」「そんな小さなことで泣くのはダサい」という考えだって、これも「男らしさ」の幻想を振りかざす暴力である。だから私は、そんなことはこれっぽっちも思わなくて、ただ感情に揺られて素直に涙を流せる人、そんな人はとても素敵だと思いました。それは男だとか女だとか、そんなものは一切関係なく。


昨日は国際女性デーだったので、遅ればせながら「女性らしさ」について書いてみました。ご精読、ありがとうございました!



休んでかれ。