外出がメンドクサイという事と義体化と●●な生活
外出ができるようになってきた
外に出るのがメンドクサイ性格である。良く言えばインドア派。休みの日は本を読んだりゲームをしたりするのが最高の楽しみ。プロ野球を観ながら「しっかりしろよ」と、寝っ転がってる自分を棚にあげて汗をかいて頑張ってる選手に口に出す。そんな時間でフルに土日を過ごすことがほとんどだった。でも、ここ数年は変化してる。土曜だけでも映画を観たり、どこかへ出かけるようになった。なぜか?それはテクノロジノーの進化のおかげというしかない。
技術の手助けによる華麗な休日
映画を観にいくときの休日を追いかけてみる。まずは映画館の座席予約だ。ネットから劇場のページへアクセスして、自分が観たい時間の、空いてる見やすい座席を購入する。当たり前になってるシステムだけど、なかった頃は上映時間を確認するには劇場までいくか、新聞で確認するしかない。行例にならんで窓口でチケット購入しても、自由席だからいい席は早い者勝ち。最悪は立ち見だ。そんな不便や不安がなくなったんだから、ずいぶんと便利になったものだ。
チケットを購入したら劇場へ車で出発。しかしどうにも自分は道を覚えるのが苦手である。地図をみても頭の中で順序だてることがうまくできない。というか、上りとか下りとか何を基準にして?標識の「直進●●市方面」とか方面てなんだよ、アバウトすぎるだろ!なんていう疑問で脳がいっぱいになって、うまく処理できない。そんでもって標識を見たり、どこで曲がるんだろう、とか頭の中で考えてたら、ただでさえ不安がある車の運転がさらに危険になってビクビクもんである。しかし、そんな自分でも大丈夫。今の車にはGPSナビがある!ナビ様が左いけ右いけ直進だとおっしゃるがままに運転すれば、目的地まで着くんだから楽ちんだ。ただし、ナビ様の指示どおりに運転しても三車線の車線変更はヒヤヒヤもんであることに変わりはない。
劇場へ着いてもまだ安心できない。車を駐車するという最大の難関が待っている。駐車が苦手!周りの車にぶつけないかドキドキすることになる。実際、会社の駐車場で他人の車に当てたことがあるし笑えない。とくにバックでの駐車が苦手。じゃあ前から突っ込めばいいんだけど、それだと後ろの駐車スペースに車がきたとき、バックで出なきゃいかんので余計に難易度が上がる。「ああバックで出るのどうしよう」とか考えると映画楽しめないので、帰るときは前進で出れるよう、やっぱりバックで停めておきたい。
しかしこれも今は後方をモニタに映すバックカメラがある。ミラーだとわかりにくい距離感も、カメラ越しの映像ならスイスイで画面上のラインを駐車スペースの車間ごとの区切りと合わせて停めればいいだけ。もしものときは、前後のセンサーで他の車と当たりそうになると、ピー!と警告音がなる。ハイテク機器に守られて安心。実は前の車を買ったとき、ディーラーの営業マンから「バックカメラつけます?運転に自信がないというんでなれば、別に無理してつける必要ないですよ」と言われて、「そうっすねーいらないっすねー」と見栄を張って付けなかった過去がある。10年たって新車を買うとき、バックカメラの必要性が身にしみていたので、絶対必須で取り付けた。安心は金で買えるということを学んだのだ。
劇場へ入る。これも地図情報サイトのgooglemapなどで、その場所へ行った人の写真などが上げられているので、どんな感じかイメージができているので助かる。写真なんか見ないでその場所にいってドキドキを楽しみたい、という人も多いと思うが、自分はそんなドキドキよりも安心が欲しい。地図情報サイトの写真はありがたい。
映画を観たあとは、ファーストフードなんか食べちゃう。これもスマホでメニュー確認して、専用アプリから注文してレジで受け取るだけで簡単。最近、よくファーストフード食べるようになったけど、実は入るのが苦手だった。だってレジで注文するときって、メニューゆっくりみれないし、ちょっと迷っただけで、後ろにならんでいる人の「早くしろよ」という無言の圧を感じてしまう。いざ注文しようとしても、あれとこれがセットになるとか、これはSサイズまでとか、お店ルールを把握してないとパニくることもしばしば。だからよっぽど空いてるときしかいかなかった。でも今はスマホのおかげでゆっくり選んで、ノープレッシャーで注文できる。ポテトうまうま。
というわけで、人混み苦手、車の運転がヘタ、列へ並ぶこと恐怖症、などなど数々の社会生活能力不足の自分が休日に映画を楽しめてるのは、もうこれテクノロジーの手助け以外のナニモノでもない。テクノロジーが外出させてくれている。ゴロ寝サイコー!だった自分に違う生活を提供してくれたのだ。
理想の自分に近づくということ
80年代の家庭用パーソナルコンピュータの広告は、可能性の言葉の羅列だった。「ワープロで文書も書ける!絵が描ける!コンピュータで作曲もできる!」なんていう言葉が踊っていたものだ。これってつまりは「あなたのなかに隠れている理想の自分になることができる」ということだったと思う。
文書を書くには辞書で漢字や言葉を調べなければいけない。絵を描くには道具をそろえたり、下地となるデッサン能力が必要だ。音楽をつくるには音符がよめなかったら厳しい。でもそういった基本的なことはコンピュータがなんとか手助けしてくれて、隠れていた自分の才能が出てくるのでは?という期待があった。仕事の道具となってしまったパソコンは人気がなくなってしまったけど、iPadなどが人気なのは「あなたの隠れた才能」が花開く気分になるからだろう。でも実際さわってみると、そう簡単にはいかないんだけどねー。実際にコンピュータが手助けしてくれて、今まで気づかなかった意外な才能が出てくることはあるし、高度な技術を利用できることは間違いない。だけど、やっぱりクリエイティブなことしようとすると、持ってる素養や、地道な努力が必要だと気づかされるのだけど。
クリエイティブな面で万人がテクノロジーの理想のサポートを受けられるとは限らない。でもやっぱりサポートを受けて人は変わってるのかもしれない。外出めんどくさいよインドア派だよ、と言っていた自分が映画のために毎週外出するようになったというのは、好きなことをするためのわずらわしいことをテクノロジーが取り除いてくれたからだ。かつてパーソナルコンピュータの広告にあったような「隠れている理想の自分になることができる」という夢は実は気がつかないうちに実現していて恩恵を受けていた。当たり前になりすぎて、気がついてないようなことも含めて。
今までできなかったことができる。自分が拡張されていく気持ちよさ。話は一気に飛躍するけど、これって「義体化」への心の準備かもしれない。
「義体化」への心の準備
アニメ、マンガのシリーズ作品「攻殻機動隊」には「義体」とよばれる機械を埋め込まれ、サイボーグ化した人間が登場する。腕を強力なパワーを持つ義手に変えてみたり、目にカメラを取り付けて普通ではみえないものをみようとしたり、脳に直接ネットワークとアクセスするインターフェイスをとりつけたり、自らの体を改造するのが当たり前の世界だ。初めてこの作品を90年代にみたときは、体をそこまでいじくるなんて気持ち悪いなー、まあ遠い未来は感覚が違うのか、と思っていたけど、今現在だとすごくわかる気がする。自分がテクノロジーによって変わったように、自分が拡張されてパワーアップするのって気持ちがいいのだ。
さすがに世の中の大半の人も体をいじるのは抵抗があるだろう。でも生活や心がテクノロジーのサポートを受けることにはもう慣れきってしまってる。「義体化」することの心の準備はもうスタートしていていて、「体をいじる?それやってみたい」になるのは、わりと近い未来のような気がする。とはいっても機械的なハードの進歩、心の変化のスピードを考えると30年後くらいからなあ。それでもわりと近いと思うけど。まあ自分が生きてるうちに腕の一本くらいは変えることになりそうだ。