「対話力」入門⑤意味は自分でつくらなくちゃ意味ない。
自分でつくらなきゃハラオチしない
前回は、対話とは意味はつくることだと話しました。
さらに踏み込んで言うと、意味は自分でつくりあげなければ、意味がありません。
たとえば、「今回の異動は、君にとってこういう意味があるんだよ」「これが君にとって一番似合う服だ」という風に言われたらどうでしょう。もしかしたら、その時は説得されたような気持ちになるかもしれません。
しかし、あとになって「ん…なんかおかしくね?」と思った体験がありませんか。ものごとや状況に対して「自分で意味づけ」をしていなければ、ほんとうのハラオチ感、納得感は得づらいということでしょう。
コミュニティや組織の理念やストーリーを、ひとりのリーダーが語っても、うまくいきづらいのはこのためです。より多くの私たちが「意味をつくる」ための機会や教育は、多くの場面であまりに軽視されているように思います。
(そして、これが、私たちが最近「組織再生」の相談をいただく事が多い理由でもあると思います。組織再生といっても、財務やビジネスモデルではなく、組織の存在理由や目的をみんなで紡ぎなおすような、対話のワークショップです。これも時代の要請だと感じます。
見方を変えると、味方が変わる
私たちには常に、ものごとに対して自分で解釈をする自由があります。言葉を変えれば、私たちは自分なりの物語をつむぎだすことができるということです。
こんなエピソードがあります。以前、私のある友人は、自分の娘と「子離れ」できないことに、ひどく悩んでいました。子離れするように周りからの助言を受けていたことも彼女にとってプレッシャーでした。
どうして大切な娘と、離れないといけないのだろうか?
それが彼女の最初の問いでした。言葉だけだとたかが「子離れ」と言う感じがするかもしれません。しかし、それは彼女にとっては心身の健康を崩すほど深刻な問題でした。そこで、私や友人は、彼女の話を聞きつづけることにしました。
およそ一か月が経った時です。部屋に入ってきた彼女は、見違えるようなすがすがしい表情をしていました。
そして、こう言いだしました。「わかったっていうか、すごいハラオチしたことがあって。私はあの子と、友人としてつながり直せばいいのよね」。
そのとき、彼女の問いは次のように変化していました。
どうしたら、自分の娘と友達としてつながれるか?
その結果、気づけば、彼女は、世間の人が言うところの「子離れ」をしていました。より納得できる形で。
その後、久しぶりに会った時に、彼女が今度は人の悩みを聞きをうけ、堂々とリーダーとして活躍している姿を見た時は、なんだかとてもじんわりしました。
私たちは、事実は変えられなくても、その見方や意味を変えることができます。
こういう言い方もできます。彼女は問題解決をしませんでした。彼女は、みんながすべきと言う形での子離れ、つまり与えられた視点から、「問題を解決すること」はしていません。ものの見方を反転させることで、そもそも「子離れする」という「問題が解消した」のです。「子離れ」から「友だちづくり」へと取り組むべき課題を再定義したともいえるかもしれません。
さいごに、ユダヤ人の精神科医で、ナチスによる迫害を受け、アウシュビッツ収容所で凄惨な体験をしたヴィクトール・フランクルはこう言いいます。
「人には決して奪われぬものがある。 それは、運命に対する態度を決める自由だ」
なにかと迷子になりやすい、さまざまな制約も増えている時代です。その中で、大げさに言えば、運命に翻弄されるようなこともたくさんあると思います。その中でも、それにどう向き合うかは常に私たちの中に自由がある事を忘れないでいたいなと私も思います。
この「意味づけの力」について理解を深めたい人は、以下の動画が役に立つはずです。
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