ライフとイノベーションを求めて。今こそ知りたい「ケイオディック・パス」|ピンチからチャンスを探るオンライン対話・開催レポート(1/4)
世界中が見えないウィルスの広がりにざわつき、一気に混沌化していく様相を見せています。この未曾有の複雑な状況をつい圧倒されてしまいそうになる方がいらっしゃるかもしれません。
このnoteは、そのような状況においても、対話によって新たな可能性を共に見いだそうとする私たちの学びの記録です。ここにある言葉が、少しでもあなたの希望につながることを願っています。
コロナでイベントが中止に!
「もともと、今私は高岡にいるはずでした。」
2020年3月21日、私は友人と共に富山県高岡市で講座を行う予定でした。地域内でのコラボレーションを、単発で終わらせずに続けてくことを意図した「次につながる対話の場づくり」を学ぼう、という企画でした。
しかし、コロナウィルスの影響で、その会は延期となりました。北陸の仲間たちとお会いできるのを楽しみしていたので残念でした。
オンラインでやってみよう
しかし、今回、幸いだったのは、視点を変えて挑戦を続けられる仲間に恵まれたということでした。運営チームで話し合った結果、「次につながる」という目的はそのままに、「今、話すべきことがあるのではないか」と思い至ったのです。
あ、右上が私です。こんにちは。
ここにいらっしゃるのは、みんな日本でのアートオブホスティングのトレーニングで出会った仲間です。量としてはほとんど会っていないけれども、大切なことのためには、こうして一緒にアクションを創り出すことができるような、質を持ったつながり方をしています。
そして、オンラインで対話イベントを開催をすることとしました。
この会にかかわらず、基本的に対面で話し合うことを大切にする私の仕事は、ほとんどが、延期またはキャンセル。
お読みの方も、働く/暮らす上で、色々な当たり前が、当たり前ではなくなってきているかもしれません。もしかしたら今、私たちはピンチを迎えていますね。
この状況を捉え直せないか
今、私たちの社会は、コロナさんからのチャレンジへの招待を受けているのではないでしょうか。
「これまでと違うやり方を試せ」と。
既にイベントの開催の仕方や、はたらき方は、見直しの対象となりつつあります。「毎日9-17時で、出社すべき」ということができなくなった途端に、リモートワークが一気に見直されています。
それならば、この際、つながり方、そして、生き方や社会・経済のあり方をも見直すチャンスにできないか。
これまでの形を手放すことで、かえって、より意味を深くを掴むことができないか。それが、今回の企みです。
そこで、今回、アートオブホスティングで必須といっていいフレームワーク「ケイオディック・パス」という考え方、それは今だからこそ知りたいものと信じて、お伝えし、それに基づいて話をしてみることとしました。
やってみて、見えてきたこと
この会の終わりには、「カオスっていいね」という言葉を大切そうに、笑いながら話す表情が少なからず見られました。変態的でした…笑。つい私たちが恐れがちな「カオスの状態」は、新しくてより意味のある変化の始まりになりうるということに、気づかれた人がいたように見えました。
また、「コロナ野郎…」と憎しみの声が、「コロナさん…」という少し敬称になった方もいました。今の状況の破壊的な側面だけでなく、創造的な側面に目を向けるきっかけになったようでした。
その他、様々に生まれた気づきは、鈴木さよさんがグラフィックでハーベストしてくださいました。
さて、ここからは当日お話した内容を、ノートの形式に合わせて、一部改変・補足を加えながらお伝えしていきます。
フレームワーク : ケイオディック・パス
今回は、「フレームワーク」というものを使って、お話をしてみませんか。
それは、色眼鏡のようなものです。それを通して見てみると、今まで見てきたものが違って見えたり、詳しく見えてきたりするかもしれないものです。
今回紹介するのは、「ケイオディック・パス」と呼ばれるものです。
ちなみに、このケイオディックという考え方は、VISAの創設者のディー・ホックさんという方が唱えたものです。日本語での論文が少なく、またその内容も神秘的な記述が多く難解だと私は思います。
それでも、今回は、実践を通じての私の個人的な理解を、今この日本の状況を踏まえてお伝えしますのでご了承ください。
では、早速入っていきましょう!
秩序のある状況
さて、「この状況には、秩序がある」と聞くとあなたはどのような感じがしますか。
安心しますか。それとも、居心地が悪いでしょうか。
いずれにしても、それは「あたりまえ」ということです。
たとえば、「朝起きたら歯磨きをする」「文章を書く時は右手でペンを握る」などの個人のものもあれば、「毎日9-17時で出退社する」「道で通りすがったときは挨拶をする」など組織や地域のレベルでもありえます。
何かが全ての人にとっての秩序に該当するわけではなく、自分にとって慣れ親しんだ「型(かた)」のことを、秩序といいます。
フクザツな状況
しかし、今、その秩序の中に、この方たちがお見えになっています。
コロナさんたちです。
それらがもたらした、今の私たちの社会の状況には、どのような性質がありますか。考えてみてください。
・・・
たとえば、こうです。
・変化:絶え間なく、状況が変わっていきます。そのため、「一度片付けたら、おしまい」とはなりません。一旦は有効と思われる解を出したりしたとしても、予測できなかった急速な状況の変化によって、その解がすぐに陳腐化することもあります。また、あなたが「経験や知識を積むのが先」と、せっせと準備をしている間に、もう既に状況は変わっているかもしれません。それは、いつかではなく、今すぐ必要なのです。
・不確実:行き先がわからず、予測がつきません。「こうなったら、こうなるはず」と思いどおりにいかないということです。それゆえに、伝統的な「計画づくり」は、機能しづらくなります。また、判断が適切だったかどうかが、結果が出て後に検証して初めて分かります。たとえば、イタリアにおいては「よかれ」と思って積極的な検査を行った結果が、爆発的な感染を引き起こしたとも報じられています。いますぐできる目の前の解決策に飛びつくことは状況を悪化すらさせる恐れがあるのです。
・複雑:因果関係が絡み合っており、ルービックキューブのように「あっちを揃えれば、こっちが揃わない」ことがあります。たとえば、コロナで言えば、イベント会社やそこで働く人たちの収入の確保のために、イベントを開催したいのですが、一方で、濃厚接触が増えれば、公衆衛生的には危険が高まります。内定取り消しや解雇などは生活保障の問題になり、一部の国ではアジア系の方が暴力を振るわれたり、国境封鎖が検討されたりなど、人権や国際政治の問題にも発展しています。
・曖昧:そもそも決まった答えがありません。唯一の正しい答え(ベスト)がないということです。よりよい解(ベター)はあり得ますが、正しい〜間違いというものさしでの判断ができません。例えば、オリンピックの延期か、中止か、無観客かという判断に、ベストはありません。
このような性質を帯びた状況は、コロナに限ったことではありません。それが、わかりやすい事例の一つであるだけであって、多く問題がこのような性質を帯びています。
たとえば、以下のようなものが該当するでしょう。まちづくり、店のレイアウト、マーケット、職場、男女関係、チームスポーツ、イベント、家庭、ガーデニング、天気、私たちの体調、私たちのキャリア、人口減少、少子高齢化、情報技術の発達、国際政治、地球環境の汚染。
こういった状況をまとめて複雑系の課題と言います。「フクザツな関係」というと、もう少しロマンティックでしょうか。
一方で、シンプルな数式、機械の故障などは、フクザツではありません。(それも状況や人によっては、フクザツにもなりえますが、ここでは細部に入り込むことは避けたいと思います。)
このようにフクザツな状況に置かれた時、私たちは、どうにはたらき、生きることを選択することが賢いのでしょうか。
その時に、ものの見方のヒントになってくれるのが、ケイオディックパスです。
秩序に、カオスがやってきた!
平和に暮らしていた私たちのもとに、フクザツことが訪れたとします。それは、コロナウィルスかもしれませんし、あなたとは異なる「当たり前」を持っている海外からの客人かもしれません。
あなたが置かれた状況がこのように見える時、どのように思うでしょうか。
怖いと思う人はいらっしゃいますか。
それとも、ワクワクしますか。(・・・これに手を挙げた人の話を、聞ききたいです!)
統制の道
あなたや誰かがカオスを感じた時、次のような経験をしたことがありませんか。
「この状況をコントロールすることで収束させよう」。
中国におけるコロナウィルスでの初動対応は、「情報統制」「個人のプライバシーを聖域としない個人情報の管理」だったと報じられています。
先ほどの例で言えば、国外から来た人に自国の風習を押し付けるのは、この統制に近い振る舞いと言えます。
それは私たちの仕事や暮らしにおける関係性の中でも見られます。
たとえば、ミーティングは最初に予定通り秩序だって進んでいきました。しかし、徐々に、参加者の様々な声が上がってきます。つまり、状況が、カオスに近づいていきます。
その時、ファシリテーターや一部の人が思った通りにいかなくなることを恐れて、大きな声でこう言うのです。「私の言うことを聞け!」「今日の結論はこういうことです!」。物理的に大きな声もありえますが、政治的・社会的な権力を持ち出すこともありえます。
そのような状況に立ち会ったことがある方はいらっしゃいますか。
・・・
実は、そのように物事を片付けていくことが、好きだという人はいらっしゃいますか。
・・・
もし私たちが機械ならば、それでよいのです。
機械は、人のいうことを聞くのが大好きだからです。
しかし、私たちの人間の生き方、はたらき方に、この関係に多すぎると、私たちは萎縮し、無力感や意味のなさを感じてしまいます。
まるで自分が機械の一部になったように感じるかもしれません。
私たち人間は、意味を求めます。
そして、それが長期に欠落することは、耐えがたいことです。個人的には、それは痛みを伴うものだと思います。そこで、私たちは「痛み止め」として何か・誰かに依存したり、中毒になったりすることがありえます。酒、タバコ、過食など。
そして、あまりにそれが続くと、どこかのタイミングで私たちは諦めてしまい、最後には、壊れてしまうかもしれません。
もしあなたにとって、自分自身のはたらき方、生き方、関係性が統制の道を歩んでいると見えているのであれば、それは「続きづらいもの」でしょう。
あなたは、機械ではなく、生き物なのだから。
私たちが本当に恐れているもの
さきほど、私たちはカオスを恐れることがあると言いました。私を含めて、一定の方がそうかもしれません。
しかし、このことについての見方をより洗練してみたいのです。
私たちが本当に恐れているものは、なんでしょうか。
それは、「強いカオス」です。
ギリシャ語で、「ハモス(Chamos)」といわれるそうです。これは、創造よりも崩壊が早い状態のことです。
そのような状況を、経験したことがありますか。
たとえば、その一つが、東日本大震災でしょう。そこには、混乱と絶望がありました。私も友人を亡くしました。それは、取り返しのつかない喪失感と痛みを残します。
もしかしたら、現時点で、イタリアやニューヨークは既にこの領域に入っているか、その寸前であると見られるような報道が続いています。もちろん、日本もそうです(2020.4.1時点)。
人間関係でも、これを見ることがあります。ミーティングで言えば、全く型がない、全員がやりたいことをやっている、お互いに対して一切責任を持たないなどの状況がそうです。
したがって、この道も私たちは通りたくありません。
希望へと続く道を求めて
統制には支配による絶望が、強いカオスは混乱による絶望があります。
このように、両極端には、「次につながりづらい道」があります。
それでは、私たちがより健やかにはたらき、生きて、希望へと続きやすい道はどこにあるのでしょうか。
続きは、こちら。
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