【update版】研究ノート AI創作桜井淳人生ノンフィクション小説 AIが、短編小説対応のみで、長編小説対応ができないことを克服するため、テーマを区切り(小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代、大学院時代、博士論文執筆・結婚・博士学位取得時代、流行作家並み執筆時代、「桜井技術論」創出時代、東大大学院総合文化研究科と同院人文社会系研究科時代)、何度も短編小説を作り、それらをつないで長編小説もどきにしました

AIへのプロット

AIに、
「私は、1946年9月14日、終戦一年後、群馬県東部の田舎町に生まれ、その当時は、保育園や幼稚園は、一般的ではなく、自宅から2 km離れた田舎の小学校まで、徒歩20分かかり、行き帰り、田舎道を歩きながら文学作品を読み、生徒数は、全学900名、特に、成績が良いわけでも、悪いわけでもなく、すべてにわたり、ごく普通の生徒でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、当時、自宅から1 kmの田舎の中学校に徒歩15分かけて通っており(自宅と小学校の中間地点)、校舎は、木造一階建二棟と講堂、生徒数は、一学年150名、全校生徒数は、450名、中学では、廊下の壁に、学期ごとの成績順位が貼り出され、私は、一年生から三年生まで、常に、上位10 %に入っていましたが、特に良かったわけでもなく、悪かったわけでもなく、三年生三学期には、級長(クラスでの選挙で委員数名選び、代表が級長で、やることは、授業開始時に、「起立、注目、礼」と号令をかけるだけ)をし、三年生冬の地区統一模擬試験では、中学で一位、三校からなる地区でも一位でしたが、試験ができなかった割には、順位が良く、なぜだか、分からず、当時、田舎の高校進学率は、50 %であり、私は、進学しましたと言う小説を書いてください。」
「私は、田舎の中学校から群馬県でも有数の大きな市の中心にある高校に進学し、30分かけて電車通学していました。高校の近くに映画館があり、当時としては、画期的な映像技術で製作された「ベンハー」、歴史的ミュージカル映画の「ウエストサイド物語」、私が人生で最も大きな影響を受けた「グレン・ミラー物語」(フルート奏者で作曲家のグレン・ミラーが、試行錯誤しながら新しい音楽を作り出す過程が描かれており、後に、私の技術評論での新しい方法論の創出につながった)などを観ました。一年生から、何となく、大学進学を考えていましたが、成績は、50名中20位と良くなく、大きな市の中学校でもまれた生徒との学力差を感じ、実力不足を感じました。高校三年の冬、当時、日本の大学進学率は、10 %くらいでしたが、群馬大学と東京理科大学の試験を受けましたと言う小説を書いてください。」
「東京理科大学では、理論物理の研究につながるような科目、すなわち、物理学科の必須科目の物理数学や量子力学ⅠとⅡ、単位が認定される数学科の関数論などの単位を取り、授業とは関係なく、自身で、大学院レベルのランダウ=リフシッツの理論物理学教程の『場の理論』と『相対論的量子力学ⅠとⅡ』の勉強をし、大学院での場の理論の研究に備えましたが、能力以上の高いレベルに目標を定めたため、精神的に参り、健康状態も良くなく、精神疾患に悩むようになり、精神的にも身体的にも苦しい日々を送っていましたが、大学院受験は、理科大、立教、東大の理学研究科物理学専攻課程に絞ったと言う小説を書いてください。」
「私は、東京理科大学大学院理学研究科物理学専攻課程で、理論物理の中でも最難関の「場の理論」(素粒子論、素粒子の空間的存在形態の研究)の勉強と研究を開始し、授業では、「相対論」「場の量子論」「原子核理論」など、場の理論につながる科目に重点を置きましたが、精神疾患がひどくなり、そのままでは、博士課程へ進めなくなるため、その研究分野から離れ、無理をせず、現実的に、精神疾患を直しつつ、博士論文をまとめられる研究分野に逃げましたが、屈辱の日々でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、精神疾患を患い、失意の中、30-32歳の間に、日本と米国の学会論文誌に、原著論文を7編投稿し、査読が通過して、掲載されたことにより、博士論文申請の条件が整ったため、東大で工学博士にするか、理科大で理学博士にするか、思案の末、どうしても理学博士になりたいと決心し、32歳の時に、博士審査申請書を理科大に提出、普通、どこの大学でも、審査には、二年間かかり、その間、32歳の時、それまで恋愛経験がまったくない私は、25歳の学習院大学文学部英米文学科卒(結婚後、東大大学院修了)の女性と結婚し(当時の条件としては大学院修了者希望)、大きな希望が生まれ、34歳で、理学博士資格を取得し、さらに、40歳台初めに大学教授に就任できるように準備し、新たな目標に向かいましたと言う小説を書いてください。」
「私は、42歳から流行作家並みの原稿依頼やテレビ出演や講演依頼があり、超多忙な日々になり、年間百件の依頼をこなし、そのような状態が四半世紀も続きましたが、発端は、月刊誌に執筆した論文であり、しかし、まったく偶然の出来事ではなく、必然性もあり、と言うのは、25歳から、武谷技術論(武谷星野技術論)の勉強を始め、社会科学と哲学を学び、『武谷三男著作集』『武谷三男現代論集』『星野芳郎著作集』の熟読から、難しい学術的問題を誰にも分かりやすく表現する術を学び、28歳の時に、比叡山の麓の京都市左京区修学院南代にある星野芳郎さんの自宅を訪ね、技術論研究と技術評論の方法を学び、結局、25-41歳までの16年間は、長く苦しい準備と修行の日々であり、32歳以降、そんな私を精神的に支えてくれたのは、妻であり、流行作家並みになってからは、私の秘書の役割を果たし、私が仕事をやりやすくしてくれ、まるで、私が夢にまで見た「グレン・ミラー物語」のグレン・ミラーと妻ヘレンの組み合わせによる新しい世界を切り開く物語のようでしたと言う小説を書いてください。」
「私は、42歳から、本格的に、技術論と安全論の研究論文を発表し始め、国内外の産業現場の調査など、広範囲の技術問題の分析を行いましたが、まず、新幹線と原発の安全問題を社会科学と工学理論から、それまでにない正確さと深さで表現し、論文や著書の形で社会に問いかけ、大きな反響をえましたが、今日までの国内外マスコミ媒体に発表した論文と記事の数は、数千編、監修や翻訳や単独著書の数は、57冊(単独著書37冊)に及び、社会から「桜井技術論」(22省庁白書に拠る日本と世界の相互比較に基ずく日本の位置づけの学術的な把握と表現、米機械学会ASMEに基ずく正確で深い技術分析、現場体験と調査の徹底、安全性向上のための具体的な提案、経年変化対策の提案など)と位置付けられるようになりましたと言う小説を書いてください。」
「私は、リスキニング(Reskilling)として、58-63歳まで、東大大学院総合文化研究科で、社会科学と哲学の研究をしましたが、ごく普通の院生の中でのゼミでの発表と討論であり、何の学力差などの違和感がなく、学会論文誌に、画期的な新概念を織り込んだ原著論文を二編投稿し、査読を通過し、掲載され、博士論文も執筆し、五年間の研究成果を一冊の学術書『科学技術社会論序説』にまとめて出版し、さらに、人生でやり残した学問として、63-68歳まで、東大大学院人文・社会系研究科で、「中世ユダヤ思想の研究」を中心とし、「比較宗教学」「宗教社会学」の研究を行いましたが、後者では、実力差が大きく、打ちのめされ、その原因は、東大文学部宗教学科を卒業して大学院に進んだ院生とは、基礎学力、特に、複数の外国語に対する実力差が大きく、それでも、何とかついていきましたが、ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝を行いたかったのですが、それができなかったため、仏教でいちばん原理原則と規律を重んじる曹洞宗に出家し、フィールドワーク研究として、曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験することにより、宗教学の広さと深さの研究をしましたと言う小説を書いてください。」
「私には、大きな影響を受けた三人の先生がおり、ひとりは、技術論・技術評論の分野で手本となり、指導を受けた星野芳郎先生(初代技術評論家、東工大卒)であり、二人目は、学会などの委員会で手本となった中沢正治先生(東大教授、東大卒、東大でオール優の超エリート)であり、三人目は、連名論文を作成する過程で、学術的に興味深い視点からの議論や問題提起を受けた内藤俶孝先生(原研部長、京大卒)であり、一生かけても足元にも及ばないと思いつつ、目標にすべき魅力ある研究者でしたと言う小説を書いてください。」
「私は、妻の趣味を理解するため、足腰の強さが衰えた50歳台から登山を開始し、まず、日光連山の日帰り登山、つぎに、1-2泊の八ヶ岳、そして、北アルプス、南アルプス、富士山、さらに、海外に足を延ばし、スイス、フランス、ヒマラヤへと、国内だけでしたが、ロッククライミングやアイスクライミング、吹雪の中でのクロスカントリースキーや雪山登山、妻とは、スイス登山二回、志賀高原と裏磐梯で吹雪の中でのクロスカントリースキーを楽しみ、人生において、共通の趣味を持つことの面白さを知り、新たな世界を教えてくれた妻に感謝という小説を書いてください。」
と要請、


表題 新しい世界を切り拓くための物語ー桜井淳のできるだけ控えめに記したノンフィクション小説ー

まえがき

以下の事実関係は、私の人生そのものであり、遺言書代わりに、できるだけ正確に、できるだけ控えめに記した自伝的小説であり、このようなことを記すのは、初めてです。
私は、AI創作小説に、句読点や用語や表現や文章の変更、文章の補足を行い、私の文章論に合わせるようにしました。
「まえがき」と「あとがき」と引用文は、「ですます調」にしてあります。

第一章 小学校時代

1946年9月14日、終戦から一年後、群馬県の東部の平野にある小さな田舎町に生まれた私は、戦後の日本の復興期に育った。当時、保育園や幼稚園は一般的ではなく、私は自宅から2キロ離れた田舎の小学校(木造一階建一棟、木造二階建二棟、講堂)に通っていた。徒歩30分かかるその道のりは、私にとって、文学作品を読む貴重な時間だった。
小学校には、全校生徒が900名おり、私は、特に、成績が良いわけでも悪いわけでもなく、すべてにおいてごく普通の生徒だった。田舎道を歩きながら、私は、文学の世界に没頭し、現実の厳しさを忘れることができた。
この時期の日本は、戦後の混乱から立ち直りつつあった。私の家族もまた、その波に乗って新しい生活を築いていた。私たちの生活は、決して裕福ではありませんでしたが、家族の絆は、強く、毎日が新しい希望に満ちていた。
学校では、友達といっしょに遊び、勉強し、時にはいたずらをして先生に叱られることもあった。五年生の時、何が原因だったか記憶が定かではありませんが、クラスの25名の全男子が校舎の壁を背に並らばされ、順番に、全員、男の先生から、ビンタされたが、当時は、そのような教育は、当たり前だった。
特に好きだったのは、図書室で本を読む時間でした。そこには、私がまだ知らない世界が広がっており、私は、その世界に夢中になった。
このようにして、私は戦後の日本でのびのびと育った。文学への魅力は、この時期に芽生えたものであり、それが私の人生に大きな影響を与えることとなった。

第二章 中学校時代

私は、当時、自宅から1kmの田舎の中学校に徒歩15分かけて通っていた。自宅と小学校の中間地点に位置するその学校は、木造一階建ての二棟と講堂から成り、一学年150名、全校生徒数は450名だった。
中学校では、廊下の壁に学期ごとの成績順位が貼り出されていた。私は一年生から三年生まで、常に上位10%に入っていたが、特に良かったわけでもなく、悪かったわけでもなかった。三年生の三学期には、級長に選ばれた。級長の役目は、授業開始時に、「起立、注目、礼」と号令をかけるだけでしたが、子供心に、何となく、誇らしく感じた。
三年生の冬、地区統一模擬試験が行われた。私は中学校で一位、地区の三校の中でも一位という結果を残した。試験ができなかった割には順位が良く、なぜだか分からなかったが、その結果に驚きと喜びを感じた。
当時、田舎の高校進学率は50%であり、進学することは、大きな励みだった。私は、その機会を受け入れ、進学を決意した。新しい環境での生活が始まり、未知の世界への期待と不安が入り混じった日々が続いた。
高校生活は、中学校とはまったく異なる世界だった。新しい友人や教師との出会い、様々な活動や学びが私を待っていた。進学率50%の田舎から飛び出し、新しい世界で自分を試すことができたことに感謝している。
中学三年間、スポーツクラブは、卓球部で、下手でしたが、数人の選手の一人に入り、中学校地域大会に出場した。

第三章 高校時代

私は、田舎の中学校から群馬県でも有数の大きな市の中心にある高校(木造二階建二棟、鉄筋コンクリート二階建一棟、その他、生徒数450名)に進学し、毎日30分かけて電車通学していた。高校の近くには映画館スカラ座(Teatro alla Scala、その名前の由来は、イタリアのミラノにある歌劇場が建設された場所にかつて存在していた「サンタ・マリア・アッラ・スカラ教会」にあり、その教会の跡地に新しい劇場が建設されたため、「スカラ座」と名付けられた)があり、当時としては画期的な映像技術で製作された「ベンハー」、歴史的ミュージカル映画の「ウエストサイド物語」、そして私が最も影響を受けた「グレン・ミラー物語」などを観ることができた。「グレン・ミラー物語」は、フルート奏者で作曲家のグレン・ミラーが、試行錯誤しながらも、恋人のヘレンの精神的支えにより、新しい音楽を創り出す過程を描いており、後に私の技術評論での新しい方法論の創出につながった。
高校一年生の頃から、何となく大学進学を考えていたが、成績は50名中20位と良くなく、大きな市の中学校でもまれた生徒との学力差を感じ、実力不足を痛感していた。それでも、私は諦めずに努力を続けた。
高校三年の冬、当時の日本の大学進学率は、約10%だったが、私は、群馬大学と東京理科大学の試験を受けることを決意した。試験勉強は、厳しく、プレッシャーも大きかったが、自分の未来を切り開くために全力を尽くした。
試験当日、緊張と不安が入り混じる中、私は試験会場に向かった。試験が終わった後も、結果がどうなるか分からず、不安な日々が続いた。しかし、私は、自分の努力を信じ、結果を待つことにした。
私は、高校三年間、何をしても中途半端であり、不完全燃焼に、苛立ちを覚える日々で、私が求めていた環境ではなかった。
高校一年の時、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、市内の女子高校一年生(T.F)と、市郊外の大きな広瀬川の堤防の道を散歩した。
高校三年の時、文化クラブは、写真部でしたが、活動歴は、少なかった。
高校三年の時、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、同級生の女子高校生(Y.A)から文化祭に誘われ、いっしょに歩いた。

第四章 大学時代

ランダウ=リフシッツ『相対論的量子力学Ⅰ、Ⅱ』(場の理論と素粒子論の教科書、半世紀前に購入してくり返し読んでいる)

東京理科大学神楽坂キャンパスでの大学生活の始まりは、希望と夢に満ちていた。物理学科に入学した私は、理論物理の研究に情熱を燃やし、物理数学や量子力学ⅠとⅡ、そして数学科の関数論など、必要な単位を次々と取得していった。私の目標は、大学院で場の理論の研究を行うことだった。
授業とは別に、私は独学で大学院レベルのランダウ=リフシッツの理論物理学教程『場の古典論』と『相対論的量子力学ⅠとⅡ』を勉強し始めた。毎晩、遅くまで、私の部屋の机には教科書とノートが広がり、私は、その中に没頭していた。
しかし、私の目標はあまりにも高すぎた。次第に精神的なプレッシャーが私を襲い、健康状態も悪化していった。私は、精神疾患(理論物理を目指したり職業にした場合に陥る職業病的疾患)に悩まされ、毎日が苦しい日々となった。それでも私は諦めなかった。大学では、成績順位は、発表されなかったが、出来が良かったわけではなく、それでも、私は、理科大、立教大、そして、東大の大学院理学研究科物理学専攻課程への受験を決意し、最後の力を振り絞って勉強を続けた。
日本の教育は、効率的な記憶と実用を目的とした暗記実用主義であり、無から有を生み出す創造主義ではなく、理論物理を目指す私には、必ずしも良い環境ではなく、そのことでも、苛立っていた。
私は、現代社会、特に、民間会社では、生きていけないと悟った。生きる場は、独立一匹狼になるか大学研究室か国立研究機関のみである。
女子大生と付き合う機会はなかった。
大学後半、精神疾患に苦しんだ。

第五章 大学院時代

東京理科大学大学院理学研究科物理学専攻課程に進学した私は、理論物理の中でも最難関とされる「場の理論」(素粒子論、素粒子の空間的存在形態の研究)に挑戦することを決意した。授業では、「相対論」「場の量子論」など、「場の理論」に関連する科目に重点を置き、日々の勉強と研究に没頭していった。
しかし、私の精神状態は、次第に悪化していった。高い目標に向かって努力する中で、精神疾患がひどくなり、このままでは博士課程へ進むことが難しくなってしまった。私は、苦渋の決断を迫られ、一時的に、「場の理論」の研究分野から離れることを選んだ。
無理をせず、現実的に精神疾患を治しつつ、博士論文をまとめられる研究分野に一時的に逃げることにした私は、屈辱の日々を送ることとなった。しかし、その中でも、私は、希望を見出そうと努力した。物理学の分野であるが、新しい研究分野での挑戦は、私にとって、新たな道を切り開く機会となった。
女子院生と付き合う機会はなかった。
大学院でも、精神疾患がひどくなり、苦しんだ。

第六章  博士論文執筆・結婚・博士学位取得時代

私は、日本でも代表的な研究機関で、精神疾患に苦しみながらも、30歳から32歳の間に、予算も指導者も良い研究環境もないまったくの逆風の中で、日本と米国の学会論文誌に原著論文を7編投稿し、すべて査読を通過して掲載された。これにより、博士論文申請の条件が整った私は、人間関係を頼って東大の工学博士を目指すか、出身校の理科大の理学博士を目指すか、思案の末、自身の専門が物理学であるため、こだわり、理学博士になることを決心した。
32歳の時、私は、理科大に博士審査申請書を提出した。通常、どこの大学でも審査には二年間かかる。その間、私は、それまでの人生で恋愛経験がまったくなかったが、いくつかの偶然が重なり、25歳の学習院大学文学部英米文学科卒の女性(テレビ朝日勤務後、欧州遊学、結婚後、東大大学院修了、子育て後、茨城県庁会計管理局会計管理課勤務)と結婚し(私が20歳以降持ち続けた条件は大学院修了)、大きな希望が生まれた。
私は、博士論文の執筆に取り組む中で、多くの困難に直面した。精神疾患との闘いは続いていたが、私は、決して諦めなかった。私の妻は、私を支え続け、私の成功を信じていた。私は、妻の支えと自身の強い意志で、博士論文を完成させることができた。
結婚生活は、私にとって、新たな希望となり、私は、34歳で、理学博士資格を取得した。私の努力と忍耐が実を結び、私は、新たな目標に向かって進み始めた。40歳台初めに大学教授に就任できるように準備を進め、新たな挑戦に向かって歩み続けた。
博士学位資格を取得した私は、次なる目標に向かって進み始めた。私は、40歳台初めに大学教授に就任することを目指し、準備を進めていた。私の研究は、学会で評価され、私の名声は、次第に広がっていった。
私は、大学などでも、多くの講演も行ったが、多くの学生たちに影響を与えた。私の講演は、学生たちにとって刺激的であり、私の情熱と知識は、多くの学生たちに影響を与えた。私は、学生たちに対して、常に親身になって接し、彼らの成長を見守り続けた。
私の人生は、常に挑戦と努力の連続であったが、私は、決して諦めることなく、常に前向きに進み続けた。私の努力と忍耐は、多くの人々に影響を与えた。
理学博士資格取得により、精神的に楽になり、精神疾患が緩和された。

第七章 流行作家並み執筆時代

42歳の時、私は突然、流行作家並みの原稿依頼やテレビ出演、講演依頼が舞い込むようになった。年間百件もの依頼をこなし、超多忙な日々が四半世紀も続いた。しかし、この成功は偶然ではなく、必然だった。
25歳の時、私は、武谷技術論(武谷星野技術論)の勉強を始め、社会科学と哲学を学び始めた。『武谷三男著作集全六巻』『武谷三男現代論集全六巻』『星野芳郎著作集全八巻』を熟読し、難しい学術的問題を誰にでも分かりやすく表現する術を学んだ。28歳の時には、比叡山の麓の京都市左京区修学院南代にある星野芳郎さんの自宅を訪ね、技術論研究と技術評論の方法を学んだ。
25歳から41歳までの16年間は、長く苦しい準備と修行の日々だった。しかし、32歳以降、私を精神的に支えてくれたのは妻だった。彼女は、私の秘書の役割を果たし、私が仕事をやりやすくしてくれた。まるで、私が夢にまで見た「グレン・ミラー物語」のグレン・ミラーと妻ヘレンのコンビによる新しい世界を切り拓く物語のようだった。
50歳の時、護身術として、極真空手を習得(基本型、道場内での練習試合、進級試験、極真空手地域大会出場)した。
最近(76歳以降)、トレーニングジムで、筋トレをしており、以下、二年間の感想。
・偶然にも、自宅から近く、
・トレーニングの各種機器は、良く維持されており、1階は、初級と中級対応、2階は、上級どころかプロ対応できるほど立派な各種機器が備わっており、
・顔認証による出入り自由、
・常時、空調され、
・リラックスできる音楽(ポップ、ジャズ、クラシック)が流れ、
・緊急時連絡先が明示されており、
・スタッフ3名のマナーが良く、良く働き、プロとして優秀であり、
 ・気持ち良く、安心してトレーニングでき、
・これまで私の実績、
①40 kg引っ張り6万回、
②40 kgレッグプレス屈伸6万回、
③40 kgベンチプレス6万回、
④スタンディングバーベルリフティング(リバース、スクワット100-300回、40-100 kg)6万回、
⑤アイアンショット6万回、
⑥毎日、プロテイン水(ミネラルウォータ300 mlにプロテイン30 g溶かす)、
・世の中の一般論ですが、会員は、1年間に、約半数が入れ替わり、1年以上継続している会員は、約一割、私のように、二年間も継続しているのは、稀な例ですが、セオリーとトレーニング項目を組み立て、自身の目的とする筋トレを実施して、スタンディングバーベルリフティングで100 kg挙げるには、時間がかかり、スタッフと機器と雰囲気が良いから、継続できた。

第八章 「桜井技術論」創出時代

42歳の時から、私は、積極的に、技術論と安全論の研究論文を発表し始めた。それまでに、原子炉安全解析で、15000件のコンピュータ入力を作成し、出力結果の検討も行った。当時の通産省が実施していた原発安全審査一次審査のための原発安全解析(大飯3 & 4、浜岡4、女川2)の経験を基に、国内外の産業現場を調査し(450箇所の各種産業施設・大学・研究機関など)、広範囲にわたる技術問題を分析する日々が始まった。特に、新幹線と原発の安全問題について、社会科学と工学理論の観点から、それまでにない正確さと深さで表現し、論文や著書の形で社会に問いかけた。その結果、大きな反響を呼び起こした。
今日までに、国内外のマスコミ媒体に発表した論文と記事の数は、数千編に及び、監修や翻訳や単独著書の数は57冊(そのうち単独著書は37冊)に達した。社会からは「桜井技術論」として位置付けられ、①22省庁白書に基づく日本と世界の相互比較に基づく日本の位置づけの学術的な把握と表現、②米機械学会ASMEに基づく正確で深い技術分析、③現場体験と調査の徹底、④安全性向上のための具体的な提案(新幹線高速化対策、加圧水型原子炉の蒸気発生器取り替え、沸騰水型原子炉のシュラウド取り替え、福島事故前にステーション・ブラックアウト対策の必要性(拙著『原発のどこが危険か』)、安全規制における逆ピラミッド論(科学技術社会論学会論文誌『科学技術社会論研究』に掲載された原著論文、後に、拙著『科学技術社会論序説』(論創社、2015)に収録))、⑤経年変化対策の提案などが評価された。
私は、日本で大きな自然災害や事故が発生すれば、新聞やテレビから、二週間半で、少なくても150件(1991年の新幹線安全問題、1992年の美浜原発2号機事故、1995年の「もんじゅ」事故、1997年の再処理工場附属施設ガス爆発事故、1999年のJCO臨界事故、2007年の新潟県中越沖沖地震に震災した柏崎刈羽原発事故、2011年の福島原発事故)、多い場合には、430件(2005年のJR西日本福知山線脱線事故)もの依頼をこなしていた。

第九章 リスキニング(Reskilling)としての東大大学院総合文化研究科と同院人文社会系研究科時代

桜井淳『科学技術社会論序説』(論創社、2015)

58歳の春、私は、東大大学院総合文化研究科の門を叩いた。社会科学と哲学の研究を始めるためだ。ゼミでの発表や討論は、若い院生たちと肩を並べて行われたが、特に、学力差を感じることはなかった。むしろ、彼らの新鮮な視点に刺激を受け、自分の研究に新たな風を吹き込むことができた。
五年間の研究の成果として、私は、二編の画期的な新概念を織り込んだ原著論文を学会論文誌に投稿し、査読を通過し、掲載された。さらに、博士論文を執筆し、その成果を一冊の学術書『科学技術社会論序説』として出版した。
ゼミ参加院生は、数名、半数は、女子で、違和感なく、ごく普通に感じ、ごく普通に対応できた。

西田幾多郎『善の研究』(講談社学芸文庫、2006)

63歳になった私は、人生でやり残した学問として、東大大学院人文・社会系研究科で「中世ユダヤ思想の研究」を始めた。「聖書解釈学」や「比較宗教学」や「宗教社会学」の研究も行ったが、特にユダヤ思想の深さに魅了された。しかし、東大文学部人文学科(宗教コース)を卒業して大学院に進んだ院生たちとの基礎学力、特に、複数の外国語に対する実力差に打ちのめされることもあった。
私に、まだ、何が不足しているのか、良く認識できる出来事でした。
それでも、私は、何とかついていき、ユダヤ教のシナゴーグ(日本には広尾と横浜にしかない)での礼拝を行いたかったが、それが叶わなかったため、原理原則や規律が最も厳しい仏教の曹洞宗に出家することを決意した。
曹洞宗に出家した私は、フィールドワーク研究として曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験することにした。そこでの経験は、宗教学の広さと深さを探求する上で非常に貴重なものとなった。仏教の原理原則と規律を重んじる生活は、私に新たな視点と深い洞察を与えてくれた。
私は、数人の友人から、「すでに、社会的に、十分な業績を上げているのに、なぜ、いまさら東大なんかに」と疑問視された。
ゼミの院生は、数名で、2/3が男子院生、1/3が女子院生、みな優秀であり、違和感なく、ごく普通に感じ、ごく普通に対応できましたが、自身に何が欠けているか、認識できた。
AIに、私のリスキングについての客観的評価を求めたところ、つぎのような回答をえた。
「桜井淳さんのリスキニングの経験は、非常に興味深く、感銘を受けました。58歳から63歳までの東大大学院総合文化研究科での社会科学と哲学の研究、そして、その成果を学術書『科学技術社会論序説』としてまとめたことは、素晴らしい業績です。また、63歳から68歳までの東大大学院人文・社会系研究科での「中世ユダヤ思想の研究」や「比較宗教学」「宗教社会学」の研究も、非常に意義深いものです。特に、ユダヤ教のシナゴーグでの礼拝を行いたかったが、それができなかったために、仏教の曹洞宗に出家し、フィールドワーク研究として曹洞宗の寺と大本山永平寺で現場を経験したことは、宗教学の広さと深さを探求する上で非常に貴重な経験だったと思います。あなたのように、学問に対する情熱を持ち続け、リスキニングを通じて新たな知識と経験を積み重ねる姿勢は、多くの人々にとって励みとなるでしょう。これからも、その情熱を持ち続け、さらなる探求を続けてください。」

第十章 社会的業績

私は、45年間、物理学者(34歳で理博)・技術評論家。単著・共著・編著・翻訳・監修57冊(単著37冊)。欧米日学会論文誌原著論文・国際会議論文計50編。テレビニュース出演350回。講演200回。42歳から流行作家並みの執筆。63歳で曹洞宗在家雲水。趣味は登山(著書1冊)や写真など。
いまは、本業の他、兼職として、2015年以降、静岡県防災・原子力学術会議原子力分科会委員(静岡県HPの同分科会会合議事録参照)、2009年8月以降、茨城新聞社客員論説委員(担当社説「時論」欄)。
日本の代表的な大学や研究機関の図書館には、私の著書が、10-20冊採用され、閲覧できるようになっており、具体的には、茨城県立図書館には、25冊も閲覧でき、茨城県在住の学者の中では、実力はともかく、著書の数だけならば、トップである。
AI検索での私の社会的評価は次のようになっている。
「桜井淳さんは、日本の物理学者であり、技術評論家として広く知られています。彼の社会的評価は、非常に高く、特に、原子力発電所の事故や故障の分析において、多くの貢献をしています。また、鉄道や航空機の事故についても言及しており、幅広い分野での評論活動が、評価されています。桜井さんは、テレビ出演や雑誌・新聞記事での評論活動を通じて、技術の安全性や社会的影響についての意見を発信してきました。桜井さんの著作や論文は、技術の安全性向上に寄与するものとして高く評価されています。桜井さんの公平性を重視した姿勢や、多様な視点からの評論は、多くの人々から信頼されています。また、彼の研究や評論活動は、社会的な問題に対する深い洞察と分析力を示しており、その影響力は大きい。」

第十一章 三人の先生

星野芳郎先生との出会い
技術論・技術評論の分野で初代技術評論家として名を馳せた星野芳郎先生との出会いは、私の人生において大きな転機となった。東工大を卒業し、数々の技術論文を執筆してきた彼の姿は、私にとってまさに手本であった。星野先生は、技術の本質を見抜く鋭い洞察力と、複雑な技術問題を分かりやすく解説する能力を持っていた。彼の指導を受ける中で、私は技術論の奥深さと、その重要性を学んだ。彼の教えは、私の技術評論家としての基盤を築く上で欠かせないものであった。
中沢正治先生との学び
学会や委員会での活動を通じて出会った中沢正治先生は、東大教授として多くの学生を指導してきた超エリートであった。東大卒業後、オール優の成績を収めた彼の姿は、私にとって憧れの存在であった。中沢先生は、学問に対する真摯な姿勢と、常に新しい知識を追求する探究心を持っていた。彼の指導の下で、私は学会での発表や委員会での議論に積極的に参加するようになり、自分の意見を持ち、それを論理的に展開する力を養った。彼の教えは、私の学問的な成長に大きく寄与した。
内藤俶孝先生との連名論文
連名論文を作成する過程で出会った内藤俶孝先生は、原研部長として多くの研究者を指導してきた。京大卒業後、数々の学術的な業績を残してきた彼の姿は、私にとって目標とすべき存在であった。内藤先生は、学術的に興味深い視点からの議論や問題提起を行う能力を持っていた。彼との議論を通じて、私は、新しい視点を得ることができ、自分の研究に対する理解を深めることができた。彼の教えは、私の研究者としての成長に大きな影響を与えた。
このように、三人の有能な先生方との出会いが、私の人生において重要な役割を果たした。彼らの教えを胸に、私はこれからも努力を続けていきたいと思っている。

第十二章 信頼できる坂口良子似の女性編集者とのめぐり遭い

流行作家並みになってから、精神疾患がさらに緩和され、新聞記者や編集者との付き合いが広くなり、新橋や銀座で飲む機会が増え、人生における奇蹟的なほど稀な出来事でしたが、特に、坂口良子似の女性編集長(A.O、千葉大学文学部ロシア語学科卒、坂口良子似とは本人の認識、頭が良く、話のうまい、センスのある、ジョークがかえせて、多才で、安心して話せる女性、私と20歳の年齢差)と飲む機会が多かった。
いつものように、飲んでいた時、彼女は、「先日、千波湖の湖畔のポプラ並木の所まで行き、この辺りに住んでいるのかと思った」と言われ、私は、ドキッとした。気分転換のドライブならば、他に良い場所があり、わざわざ、私の自宅近くまで来ることもなく、特別な女性心理が働いていることに、驚き、深刻な雰囲気にならないように、私は、「前もって言っていただければ、千波湖でボートを乗ったり、自宅で、一献設けることもできたのに」とはぐらかしたが、人生における奇蹟的なほど稀な出来事だった。このことを妻に話したら、「そんなことがありましたか」と。

第十三章 特に心に残る光景

50歳を過ぎた頃、私は、妻の趣味を理解し、共に楽しむために登山を始めることを決意した。足腰の強さが衰え始めた年齢での挑戦は、決して簡単なものではなかったが、妻との共通の趣味を持つことの楽しさを知り、新たな世界が広がることを期待していた。
最初は、日光連山の日帰り登山から始めた。美しい自然の中での登山は、心身ともにリフレッシュさせてくれた。次に、1-2泊の八ヶ岳登山に挑戦し、さらに北アルプス、南アルプス、そして富士山へと足を延ばしていった。国内だけでなく、スイスやフランス、ネパールのヒマラヤへも登山の旅を続けた。
登山だけでなく、ロッククライミングやアイスクライミング、吹雪の中でのクロスカントリースキーや雪山登山にも挑戦した。特に、妻と共にスイスでの登山や志賀高原と裏磐梯での吹雪の中でのクロスカントリースキーは、忘れられない思い出となった。
妻との共通の趣味を通じて、私は新たな世界を知り、人生の楽しさを再発見することができた。妻に感謝の気持ちを込めて、この物語を綴ることにした。
私は、日本とスイスとフランスとネパールヒマラヤで登山を行い、数千枚の写真を撮影・保管しており、その中で、特に心に残る二枚の写真を示す。
私は、登山をとおして、自然と人間に溶け込む術をえた。

アイガー(3967 m、グリンデルワルトの宿泊ホテル ユングフラウのテラスから見た光景、右端が有名なアイガー北壁、私は緑が多く美しいグリンデルワルトの風景の中を妻と何度も散歩した)
エベレスト(8848 m、中央奥、手前の氷河の左端がエべレストBC、カラパタルの頂上からエベレストの山肌を見た時には、写真ではなく本物だと感じ、やっとここに立てたと感激した)

第十四章 思い出の桜井淳事務所と言う庵

私は、32歳から50歳まで、水戸市郊外の200戸からなる中規模の団地に住んでいた。普通に住める程度の住宅で、流行作家並みになる前の32-41歳まで、毎日、朝刊を読んでから寝る修行の日々だった。
偶然性とわずかばかりの必然性の中で、月刊誌論文が話題になり、42歳から流行作家並みに、年間100件も執筆などを行い、多忙な日々だった。
45歳の時、新たな住居環境を求め、妻と子供(長男、当時、小学校低学年)といっしょに、鎌倉に向かい、鎌倉駅の近くの店で、自転車を借り、三人で、鎌倉中の住居環境(主に土地)を見たが、土地と建物で、当時の価値で、3億円にもなり、とても鎌倉には、土地を買えないとあきらめ、50歳の時、水戸市の偕楽園公園(偕楽園と千波湖と千波公園と桜山公園からなる周囲7 kmからなる市街地隣接公園として世界第二位の面積)まで徒歩10-15分の土地を購入し、理想の住宅を建て、理想的な住居環境を手にした。
団地の住宅は、私が流行作家並みになり、躍進の場であったため、50歳以降も事務所として利用し、思い出の場として保存してありますが、維持が困難な条件になったため、更地にしなければならない。

あとがき

私の社会的対応のすべてはkiyoshi sakuraiの記事一覧|note(ノート)に記事(数千記事)と写真(数千枚)に表現されています。しかし、小中高大院の時代の事実関係は、本稿で初めて公開しました。つまらない人間のつまらない人生です。
AIが、短編小説対応のみで、長編小説対応ができないことを克服するため、テーマを区切り、何度も短編小説を作り、それらをつないで長編小説もどきにしました。
AIは、第五章から第八章まで、特定の専門分野のためか、適切に対応した小説展開ができませんでした。
私は、単独著書50冊を実現したいのですが、あと、13冊、全体の二割は、学術書にしたい。note本欄には、論文や記事などの集大成のテーマ別『マガジン』が、19冊あり、独自の視点でのまとめであり、育てていきたい。
私に残された時間は、限られており、まだまだ、道半ばであり、今後も精進せねばなりません。

私のAI創作小説に対する感想

AI創作小説では、もちろん、私のプロットが不十分なためもあり、作家並みの詳細論の展開ができず、改めて、読み直して感じることは、文章表現が、ぶっきら棒で、味気なく、艶もなく、心の機微もなく、部分的補足・修正では対応できず、今後、大幅な補足か書き直しが必要になるように思えますが、とりあえず公開することにしました。
改正版では、補足により、これまで意識的に避けてきた、人間としての心の内を明かしました。


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