研究ノート 私の技術論研究の先生は、星野芳郎先生(当時、初代技術評論家、元立命館大学教授)であり、初めてお目にかかったのは、1975年8月上旬(私が28歳)、当時のご自宅の京都市左京区修学院南代を訪れ、二階の書斎で、一時間ほど、技術論研究の方法と課題について、ご指導いただき、その後の大きく確実な指針になり、それから13年後の1988年4月、私(42歳)は、二代目技術評論家として、世の中から、流行作家並みの原稿依頼を受け、すぐに、星野先生との対談が実現、・・・
私の技術論研究の先生は、星野芳郎先生(当時、初代技術評論家、元立命館大学教授)であり、初めてお目にかかったのは、1975年8月上旬(私が28歳)、当時のご自宅の京都市左京区修学院南代を訪れ、二階の書斎で、一時間ほど、技術論研究の方法と課題について、ご指導いただき、その後の大きく確実な指針になり(星野先生は、「技術論研究は、30年ではなく40年かかる」と、続けて、「武谷三男は、天才、星野は、労働者、良く言って良心的実務家」と)、それから13年後の1988年4月、私(42歳)は、二代目技術評論家(歴史的には、武谷技術論あるいは武谷・星野技術論の後継者)として、世の中から、流行作家並みの原稿依頼を受け、すぐに、星野先生との対談が実現し、1991年には、週刊エコノミスト誌上で、1990-91年には、月刊経済評論誌上で、六テーマ12回の対談を実施し、前者については、拙著『美浜原発事故』、後者については、『桜井淳著作集第6巻星野芳郎との対話』に収録されており、その後、2005年(私が60歳)、川崎市麻生区にある当時のご自宅を訪れ、二階にある「評論の部屋」と「技術論研究の部屋」に案内され、特に、後者には、歴史的基本的文献がそろっており、本棚には、羽仁五郎先生と武谷三男先生と星野先生の三人が映っている写真が飾ってあり、歴史的人物の写真であり、その部屋は、学術研究の雰囲気があふれており、感心、訪問直後、20冊の文献(星野先生作成の資料集)をいただき、資料の整理と作成が特に優れていると感じ、とても及ばない世界と感じました(私のこれまでの経験では、技術論研究は、50年ではなく60年かかると覚る)。
私は、1997年、星野芳郎先生(当時、帝京大大学院経済学研究科教授)に対し、「技術論研究」で、学位審査の可能性を打診したところ、「うれしい。しかし、なぜ、もっと早く言ってくれなかったのか。停年(75歳)まであと半年しかなく、審査には、最低、2年間かかるため、時間的に無理」との返信をいただき、お互いの年齢を認識していなかったわけではありませんでしたが、時間が一瞬にして流れてしまい、星野先生の年齢がそこまで達していたことに失念しており、日本の大学には星野技術論の後継者で学位審査のできる研究者がいないため、この件については、記憶が薄れて行きました。そのやり取りをとおし、最大の恩返しができたと自負。
話は、前後しますが、麻生区の星野邸を訪れた時、星野芳郎『一本道の由来』(87p.)という自伝をいただきましたが、内容は、東工大四年生の時の悲恋(相手は同じ年齢の事務員)の話であり、最初から最後まで、これほど物事を真剣に深く考える哲学的石頭人間が在位するものかと思い、結局、仕事と人生の方向は、その悲恋の産物と解釈できるストーリーです。