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SF泥の雨

 月が失禁して8惑星年が経とうとしていた。

 東南東の方角から、夜空を背に伸びあがるようにして姿を現すのが惑星イズモH3の月だ。表面にこごった薄い雲の層が、橙色と灰白色のちょうど中間を示していた。周囲に射す七色のかさが毒々しい。

 数少ないイズモの入植者たちの目には、月は異様に大きく見えた。悠々と空を横切る姿はまるで膨れきった金魚だ。月が通った後の夜空には、なすりつけたような雲の跡が残った。

 月は疫(えやみ)だ、と人は言う。イズモに人が住み始めた当初、月は丸型をしていた。それがいつの頃からかぼやぼやと輪郭を失い、喘息患者のように苦しげに雲を吐き出すようになった。吐き出された雲はイズモの薄い大気の外側にへばりついて、染みのように空をよごした。

 雲は星の微弱な重力のふところに入り込んだ。雲とはつまり、形を変えた水であった。乾ききったイズモの星に降り込めた泥混じりの雨は、その上に建った入植者たちの基地を造作もなく包み、押し流し、飲み込んでいった。

 星の外へ逃げ出す者も居れば、一方で地に身を伏せてやり過ごそうとする者もいた。始めの方はまだしも、後の方の試みはうまくいかなかった。星の巡りは公平だ。地の上に暮らせば、自転と公転の作用によっていずれは月に見咎められよう。この星にとどまる限り、誰もが等しく月に抱かれて死ぬ定めにあるのだ。

 ……ああ、今日もまたどこかで泥の雨が降る——

——

 仕事にあぶれた男が一人、混み合う路地を歩いていた。ごみごみと淀んだ街の空気を吸う。深くため息を吐いて応答。遠く故郷を離れた星の小さなコロニーで、自分一人が酸素を無駄づかいしているように思えた。

 イズモの男のする仕事と言えば化石資源の採掘と決まっている。危険は多いが払いは良い。おまけに頭を使わないときている。が、彼は長続きしなかった。高いプライドゆえのふるまいか、あるいは根が怠け者なのか。なるほど男の顔には覇気がない。

 右腕を吊った病人着姿でいるのは、体よく仕事をやめ、かつイズモ中央労働監督所から失業手当を得るための方便だ。そして働きもせず稼いだ金で何をしているかと言えば、得体の知れない鬱屈を抱えて街の中をうろついている。早い話が半端者だった。男の名はラグナロク。

 ラグナロクはふと、道端の屋台の前で足を止めた。台の上に萎びた木の根や、栄養補給剤がまばらに並んでいる。労働監督所支給の制服に身を包んだ店主はといえば、通りかかった病人着の客に目を留めて胡散臭そうにしていた。

「何を見てるんだ」

「ん? ああ、チーズだ。チーズをくれ」

 ラグナロクは真っ先に目についた、つやのないチーズを指して言った。店主がろくに包装もされていない食料を手渡しで寄越すと、受け取ったラグナロクは扱いに困った挙げ句、それを吊り下げた右腕の上に乗せた。空いた片手で懐から金を取り出し、脇に下がった吊りカゴの中にジャラジャラと落とす。

 用が済むとラグナロクはまたふらふらと歩き出した。浮かない表情だった。合成乳製品は安くはないのだ。決して高くもないが。一口かじったチーズの味は、久しぶりではあったが、あまり感心しなかった。そしてまた限りある資源を無駄にしている自分自身を見出す。

 こうも満たされない思いのするのは、夜ごと頭の上を張り付いて離れない月のせいではないだろうか。崩れ行く月が、行く手に滅びの影を投げかけていた。コロニーは箱や円柱の形をした建物の寄せ集めだ。泥の雨はその天辺から流れ込み、主要な機関を侵し、時にその重みで塔をへし折ってしまう。この星の住民であれば幾度となく見てきた光景だ。

 ラグナロクのコロニーは未だ降雨に会っていない。月が都市の真上を通らなかったり、真上を通っても雲を生じなかったり。いずれにせよたまたまだ。今もまともに運営が続いているコロニーは一つ残らず、そういう不安定な状態に置かれている。果たしてそれがいつまで続くか。

 入植者たちの生活圏は、もっぱらコロニーを縦横無尽に走る回廊であった。壁は星の砂を混ぜて作ったコンクリートの打ちっぱなしで、窓なんかは元より誰もほしがっていない。だからもし屋内に泥が染みれば、その時は小便を垂れられた蟻の巣よりもなお悪い。そら、今にもそこの角を曲がって、黒い水が雪崩を打って溢れてくるのが見えないのか。

 ラグナロクはふと、前からこちらへ向けて歩いて来る人物に目を留めた。知り合いではない。というより、まだ子供だ。深緑の瞳、短く刈った黒髪。よれた古着は、好きで着ているわけではなさそうだ。行く先があるのか、ないのか。足取りこそしっかりとしているが、その姿はどこか儚げだった。

 ラグナロクは少女のことを知っていた、あるいは知っているつもりでいた。この星でまことしやかに囁かれる、噂が本当だとすれば、の話だ。少女は自分を眺めている男に気づかないまま、そばを通りすぎようとした。ラグナロクは自分でも知らずその名を呼んだ。

ハティ

「なに?」

 少女が胡散臭げに問うた。意表を突かれたようではあったが、はっきり返事をした。ラグナロクは少女の行く手に立ちはだかった。

「本物か? "稲妻のみなしご"、"泥の雨の先触れ"、"雨女"、"月からの声"? 全部本当か?」

「し、知らない」

 いくらか気後れした様子の少女に向かって、ラグナロクはなおも話続けた。

「嘘だ。ハティと呼ばれて返事をしただろう。あんたがそうなんだ」

「だから知らないっての」

 少女のひすいの瞳がラグナロクを見すえた。ラグナロクと比べて頭二つ分も小さい彼女は、男が自分を見ていないのに気がついた。男は少女を通して、形のない、底知れないものと相対しているのだった。それが何であるかは、彼女もやはり知っているのだが。

「認めろ。あんたはハティだ。もうすぐここに月から雨が降る。だから来たんだ」さらに一歩踏み出す。少女の目が泳ぎ始めた。「どうだ」

 追い詰められた少女は、腕を突き出して男を押し返そうとした。ラグナロクは自由な方の手で腕を掴んだ。途端に猛烈なショックが彼を襲った。

 体が意思に反して飛び上がるのがわかった。視界は焼ききれたかのように白濁し、次いで七色に点滅した。少女に触れた方の手は、今では目に見えない悪霊と手を結ぶかのようにガクガクと空を掴んで痙攣している。

 視界が戻るまで数分間を要した。その時彼の居場所は地べたの上だ。汗もかいていないのに全身が冷たく痺れている。口の中がカラカラだ。ひすいの瞳が気の毒そうに自分を見下ろしていた。ラグナロクは少女を指差した。

「ひ、引ったくりだ! 怪我人を突き飛ばして金を盗った!」

 周囲がざわついた。ラグナロクの訴えが終わるが早いか、少女はきびすを返すと、目にも止まらぬ早さで人混みに紛れた。ほとんどかき消えてしまったかのようだった。後には尻餅をついて、何もない宙空を指差す素浪人の姿ばかりが残った。

 ラグナロクはバツが悪そうに舌打ちをすると、包帯を巻いた腕を支えに平気な顔をして起き上がった。チーズは床に転がしておけ。今はそれどころではない。彼は足早に歩き始めた。

 間違いない。ハティだ。ラグナロクは少女の腕を握ったときの、冷ややかさを形に込めたような、鉄の感触を思い出す。あれの正体は、孤児だ。なんでも科学者が泥の雨を生き延びた娘の体を、ほとんど丸々機械に置き換えたんだとか。目を覚ました少女は誰一人追ってはこられないコロニーの外に飛び出し、以来復讐の機会をうかがって月の後を着け回しているのだそうな。

 それにしても。ラグナロクは少女を掴んだ手を握り、また開いた。まだ少し痺れが残っている。漏電していた。だとすれば、あれは壊れつつあるのか。あれが追いかける月と同じに。

 もはやラグナロクが当て処もなく町を歩き回ることはなかった。腕を吊るのもやめだ。今や彼はコロニーを立体的に行き交うリフトに乗り込み、一刻も早く家路に着こうとしていた。少女が姿を現すのは雨の前触れだと言う。この街を出ねば。

 区画N3、階層6がラグナロクに割り当てられた我が家だった。元より広い部屋ではない。もっと言えば、中央労働監督所が貸し与えてくれる部屋に清潔感など望むべくもない。その部屋が今日はいつにも増して汚ならしく、足の踏み場もないほど散らかっていた。後生大事に持って逃げたいものもなし、金目の物を選りすぐって、出立の前に売り払おうという魂胆だ。

 ラグナロクはガラクタを一杯に詰めた鞄を背負って家を出た。出かけた先はコロニーの地下街だ。地上とは打ってかわってパイプが剥き出しになった壁。わずかに湿り気を帯びた空気に、素っ気ないランプの明かり。地下街にはいかがわしい店が集まっていた。

 ラグナロクは片っ端から商店を回り、品物を買い取ると言った相手にはろくに額面も見ず売り付けた。選り好みをしている時間はない。いよいよ買い手がつかないとなれば質屋へ行って預けた。返す必要のない金が借りられた。そのことで彼は一気に調子づいた。

 続いて彼は宝石商へ出かけていった。色とりどりの宝石は、イズモの化石資源の採掘の副産物であった。ラグナロクはそこでいくつかのコーラルをあしらった服飾品を買い漁ったが、いずれも12回払いや36回払いなどの細かく区切った分割払いにした。果たして彼が今日一日で署名した契約書は数知れない。ラグナロク・ラグナロク・ラグナロク・ラグナロク……

 ラグナロクは自分の部屋に舞い戻った。彼は打ってかわって殺風景になった部屋の真ん中に寝転がって、しばし考えを巡らせた。まずは良い。ここまではうまくいった。視界に広がる壁や天井は、傷や黄ばみの一つに至るまで覚えのないものがなかった。が、それに値するだけの感慨もない。

 ここでの暮らしは、言うなれば、そう――止まり木に過ぎなかった。骨休めを済ませたら、その後は以前より高く飛び立てようというものだ。ラグナロクはコロニーを出た後の暮らしに思いを馳せながら、いつしかずるずると眠りの中に落ちていった。そうして良い理由など何一つとしてないが。

 ハティは"稲妻のみなしご"だ。酔狂の行き過ぎたイズモの科学者が、泥の雨によって壊滅状態に陥ったコロニーから瀕死の少女を助けだし、駄目になった半身を機械に置換して生き返らせた。科学者は彼女に仕事を与えてやった。地表から常に月の動きを見張り、有り様を伝える軌道直下観測人間だ。彼女は何も、その始まりから脱走を企てていたわけではなかった。

 彼女が行方をくらませたのは、任務に就いてまもなくのことだ。巡回の最中に、突然報告が途絶えた。それから彼女が科学者の前に姿を現したことは二度となかった。仕事に飽きたか、代わり映えしないコロニーの外の景色に嫌気が差したか。あるいは何の前触れもなく動きを止めて、今ごろは砂に埋もれながら風化を待っているのか。

 真相はそのいずれでもなかった。ハティは未だ人の身には広すぎる不毛の星を駆け巡り、絨毯爆撃を続ける殺戮の月を、常にその目線の先に捉え続けていた。彼女の行く先々に雨が降る。そういう噂が広まり始めたのもその頃だったが、これはあながち嘘でもなかったろう。

 今、孤独な少女は何を思うのだろう。彼女は永遠に天体との追いかけっこを続けるつもりだろうか。いや、そうではない。ハティは月を食い殺す狼の神なのだから。

——

 眠りから覚めたとき、目を開けるのが怖かった。しくじった。見え透いた罠に落ち込んだ。泣き言で頭が一杯になった。

 ラグナロクは恐る恐る目を開く……見慣れた部屋の中だ、もちろん。問題は部屋の外だ。金目の品を詰めた鞄を幾重にも体に巻き付け、一目散にドアの外の白亜の廊下に飛び出した。部屋の前に男がいた。男は付き合いこそ薄いが、ラグナロクの隣室の住民だった。短い距離を落ち着きなく、何度も行ったり来たりしている。

「おい」ラグナロクは隣人に声をかけた。「どうなってる」

「どうもこうもない。月の周回軌道予測が外れた。今まさにここの真上だとさ」

 男は苦々しげにラグナロクの質問に答えた。月の周回軌道はこの星の上の全住民の関心ごとだ。当然科学の粋を凝らして観測がなされているが、結果は外れることもしばしばだった。だから物に慣れた入植者は、予測が外れた程度のことでは動じない。

 男は答えたあとで、ラグナロクの奇矯な格好に思いあたった。クリスマスツリーみたいに至るところに鞄がぶら下がっていた。

「なんでえ。俺に聞かずともよくわかってるじゃないの」

 ラグナロクは男の脇を通り抜けた。そのまま廊下を無限遠の奥に歩み去るかと思われたが、思い直して、隣人の方を振り返った。

「じゃあな。俺はあんたのこと好きでも嫌いでもなかったよ」

「ケッ」隣室の男は嘲るように鼻を鳴らした。この手の過敏反応を起こす者は、月がコロニーに接近する度に現れる。おめおめと逃げ去るが良いのだ。何処へなりとも。「そうかよ」どうせ同じことなのだから。

 リフトの乗車駅はチケットを買い求める乗客でごった返していた。月が近づいた時にはいつもこうだ。ラグナロクは当然この事態を予測していたが、今となっては何もかもが遅すぎた。じりじりと身を焦がされるような思いで、彼は広いホールを埋め尽くす人ごみをかき分けた。

「気を強く持たなければならないぞ」ラグナロクは自分に言い聞かせる。今は行く手に溢れているものが人で済んでいるが、今夜のうちにこれが黒い汚水にとって変わるのだ。それがいつかは、わからない。

 そうは言っても、ラグナロクは結局は時間のプレッシャーに屈した。彼は乗車券の売り場にたどり着くや否や、列に並んで順番を待つ人々を無視して、真っ先に券売機の前に足を運んだ。死神がすぐそこまで迫ってきているのに、いつ来るとも知れない順番を待たねばならないとは。考えられないことだった。

 券売機の前では、化石資源の採掘労働者であろうか、目元の黒々と落ち窪んだ、固太りの男がチケットを買っていた。ラグナロクは男に声をかけた。

「申し訳ないが、私の分もチケットを買ってもらえないでしょうか」震える声に精一杯誠意らしきものを込めた。「順番を待っていられないんです。腕をお医者様に見てもらわないと」ラグナロクは苦痛に顔を歪めるふりをしながら、右腕を男の前に掲げた。もう包帯は巻いていなかったし、肩から吊り下げてもいなかったが。

 話しかけられた男は、首を巡らせてラグナロクの方を見た。ラグナロクは弱々しい笑顔を作った。そんな彼を、男は思いきり突き飛ばした。ラグナロクは顔に笑みを張り付けたまま、背後の柱に強か背中を打った。

 固太りの男が何か言った。音節の細かく分かれた、しゃくり上げるような調べの、ラグナロクの聞いたこともない言葉だった。己の失態を悟ったラグナロクの元に、男がのしのしと歩み寄ってきた。背中では骨と肌が一丸となって、中枢神経に激しい苦痛を訴えている。

 男がまた何か話した。今度は妙に語尾の長い言葉だった。彼は今や明確に怒りの表情を浮かべている。取りつく島もなさそうだ。ラグナロクは肩にかけた鞄の中身をまさぐった。男がその動きを見て、再びラグナロクの肩を突き飛ばした。背骨が柱の曲面を噛んだ。ラグナロクは苦痛に呻いた。

「ほら、これ」ラグナロクはコーラルの首飾りを差し出した。今鞄から取り出したものだ。黒い紐の先で、だいだい色の宝石が重たげに揺れている。それに、固太りの男が手に持っていた乗車券を指差した。「そのクソ券と交換だ」

 男はまじまじと宝石を見た。よじれた紐の先で、ゆっくりと回りながら放たれる七色の輝き。それこそはイズモの至宝と呼ばれる、古生物の化石だった。宝石の美しさが勝った。男はラグナロクの手から乱暴に首飾りをもぎ取ると、肩を怒らせて歩み去った。乗車券はラグナロクの手に残った。

 
 その晩、月は溶鉱炉の注ぎ口のように煮えたぎって震えていた。頬が紅潮し、輪郭が潤み、今にも泣き出さんばかりだった。雲の形づくる模様が、渦を巻いているのがイズモの地上から見えた。まるでこれから起こる悲劇に哀悼の意を表すかのようだ。むざむざ星の上に留まって死なんとしている4万の生命たち。

 地表にはコロニーの尖塔が、表彰台のように段を成して並んでいた。その上にスポットライトが照るがごとく浮かぶ月は、ほとんど狂気じみた大きさをしている。今やその形状は真円とは程遠い。イズモの潮汐力を受けて雲の下の液面が荒れ狂い、縦に長い楕円を成していた。雌鶏の卵や獰猛な山羊の目に似ていた。

 突如として渦の中央が怪しく濁り、泡のように膨らんだ。そしてそのまま、垂れる。金色の雫がイズモの極めて薄い大気の中を、地上に向けて落ちていった。クジャクの尾羽が宇宙を渡る。8万の瞳と桟敷席の星々がそれを見ている。開こうとする羽を、イズモの重力と大気が厳しく押さえつけた。羽は葛藤し、もがきながらその間にもますます地上に近づいていく。そして先がコロニーの天辺に触れた。

 それでお終いだった。月の失禁が報じられて以来、補強に精を出してきた尖塔は粉々に砕け、重力に抱き留めてもらうこともできず、空中に四散した。今夜の雲はこれまでになく"重た"かった。それを知っていたのは月だけだった。山に山を被せたようなものだった。雲は都市の上で放射状に広がり、コロニーの8層を、7層を、5層を、地下街までもをその腹の中に収めてしまった。

 コロニーが滅ぶさまをラグナロクは旅客機の上から眺めていた。広がった孔雀の羽を中心に膨大な量の砂が巻き上がり、一部は旅客機にも降りかかった。砂がぶつかるたび、コツコツと声を潜めて笑うような音がした。窓辺に座るラグナロクの顔に表情はない。怯えを抱くには遠すぎたし、安堵するには早すぎた。何もかもがまだ途中で、終わらせるにはどうしていいかも彼にはわからなかった。

 雨を降らし終えた月は、心なし前よりも小さく縮んで見えた。月が吐き出す雲にも限界はあろう。けれど人の限界の方が早く来そうだ。邪魔な月が崩れ去るか。星の上の人類が絶滅するか。どちらが先だろうか。

 ラグナロクはふと、崩壊するコロニーの方角から、何かが逃れ去ろうとするのを目にした。銀色に煌めく小さな影が、地上をひた走っている。はるか上空からでは、人とも獣とも判別がつかないが。恐らくハティだろう。ラグナロクは確信した。やはり月を追っていた。あれの戦いはまだ続いているのだ。

 あれの目的は一体どこにあるのだろう。人の身で月を滅ぼすつもりか。あれに施された科学とは、それほどまでに万能なのだろうか。いや、むしろ人の意志の力は、と言うべきか。それもまた、彼にとってはわからないことだった。考えることに飽きたラグナロクは、窓から視線を反らし、シートに深く身を埋めた。

(つづく)

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