アルフォンス・ミュシャ:死季
これがミュシャか――暗殺者はそう思った。ひび割れたような肌の深い皺に、柳の枝を思わせる長い髭。藤椅子に浅く腰掛け、現世を忘れたかのごとく微睡んでいた。初代ボヘミア皇帝にして最強の魔術師、アルフォンス・ミュシャは当年とって79歳になる。
燭台が照らす暗い広間の隅で、殺し屋は肩透かしを食ったような気分で短刀を手に取った。そしてその瞬間、自分が死地の只中にあることを知った。
「解れよ」呆けたように開いた老人のくちびるが、ひどく緩慢な動きで言葉を発音せしめた。暗殺者が振るった刃はむなしく空を切った。というのも彼の視界では、手首から先が遥か遠くに引き離されて見えたからだ。
彼はその時また、自分の体が無数の星や波の形へと柔かに分断されつつあるのを知った。そうして体は結びつきを失っていき、やがて広がって蝋燭の火をかすかに揺らしたが、それ以上何をするでもなく大気中に消えていった。
老人は片目を開けてそちらを見た。
「お前の差し金か? ピカソ」
「違う。私とは無関係の刺客だ」暗がりから滲むようにしてパブロ・ピカソが現れ出た。「ただ私がプラハ城まで来るのには都合が良かった」ピカソはスペインの総統であり、ボヘミアとは継戦中である。
「ふむ」ミュシャは顔を上げた。ピカソは瞬時にミュシャの正面に移動していた。仮に左を見ればピカソは左に、上を見れば天井の前面に出現する。謎めいた全方位視点を持つピカソは対峙した相手をあらゆる角度から認識するが、代わりに相手は全ての角度に彼を見ることになるのだった。
「用件は」
「なあ、ミュシャよ。我々は似た者同士だ」ピカソは小脇に抱えた袋から一幅の絵を差し出した。「かつて同じく画家の夢を追い、敗れた。そして今はここにいる――ならば、この絵はなんなのだろうな?」
始めは怪訝な顔つきだったミュシャの目は、やがて驚きに見開かれた。見知らぬ絵の片隅には、確かに「Mucha」の署名が記されていた。
【続く】
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?