ここまでわかった!呪術廻戦の第236話『南へ』とはなんだったのか(わかってない)
どういう記事か
週刊少年ジャンプで連載中の漫画「呪術廻戦」の第236話『南へ』についての記事だ。
該当の回(以下『南へ』)は情報量が多く、一見矛盾しているように見える描写もあって読解のために内容の整理が必要に思えた。
ゴールは『南へ』に何が書いてあったのかをまとめることと、作品の中での位置づけを確認することだ。そのために作品そのものを読み解く試みも行うので、記事を読んだ人にとって何かしら助けになれば幸いだ。あと普通に単行本未収録回も扱います。
『南へ』では何が起きたか
以下に『南へ』で起きたことのみを列挙していく。
ちゃんと読み解く気があるならその前の五条悟VS宿儺から書けよという向きもあろうが、見ての通り一話だけでも凄い分量であり、書く側も読む側もめんどうなので、行わない。
だいたい『南へ』と前の回の間は描写のスキップがあるのでこれでよいだろうという目算である。
1ページ目:五条悟が夏油傑と再会/五条再会を嫌がる
2ページ目:五条再会を嫌がった理由を「死ぬときは一人だと生徒に話したから」だと説明する/五条今この場が妄想であってほしいと願う/夏油「妄想と現実のどちらでもいいだろう」となだめる/五条宿儺を褒める
3ページ目:空港の遠景/五条宿儺に共感できると述べる/五条周囲の人間との間に感じる隔絶について話す
4,5ページ目:五条生徒の中に夏油がいれば満足したと話す
6,7ページ目:五条討ち死にを喜ぶ/七海五条を気色悪がる/七海「思考様式のおかげで五条は長生きした」と述べる/五条は自分一人のために呪術を行使する変態
8,9ページ目:灰原謝る/七海「呪いが人を活かすこともある」
10ページ目:五条「呪術師に悔いのない死はなかったんじゃないですか」
11ページ目:五条妄想でないことを祈る/飛行機が映る
12,13ページ目:死~ん
14,15,16ページ目:宿儺による解説
17ページ目:宿儺あっぱれ
18,19ページ目:投入されたのは雷神鹿紫雲一
書き出してみると情報量が多い。というか一つ一つの台詞をとっても過去回を踏まえていて難解だ。
2ページ目の「死ぬときは一人だ」は58話の台詞で、文脈としては「(周りに味方が大勢いたとしても、呪術師が負けて)死ぬときは一人だ」の意味だがなぜか前半がオミットされている。
10ページ目の「呪術師に悔いのない死はない」は3話の台詞で、その前に「死に際の心理を想像するのは難しいが」というエクスキューズがつく。
つまるところがどちらも事前の予想に反して死に際に見る景色は悪くなかった、という意味の引用でよさそうだ。
過去の台詞の引用を読み解いたところでまだ描写には疑問が残る。14~16ページと18,19ページの内容が気になってしょうがないという人も中にはいるかもしれないが、だいたいの読者の疑問は1~13ページの内容に対する「果たしてこの景色は五条の言うように妄想なのか?」と「めちゃくちゃ高いところから物を言っている五条は何様なのか?」の二点に集約されるのではないだろうか。今回はこの二つを主に取り上げていきたい。
五条悟は妄想の景色を見ているのか?
まずは一般論として抑えておいてほしいのは、漫画の台詞に「果たしてこれはAなのかBなのか?」という台詞が合ったらそれは読者にAなのかBなのかを考えてもらいたいという事だ。おまけに『南へ』では「妄想か事実か」に触れる台詞が二つもある。これは通常より2.5乗考えてもらいたいという意味に違いない。
なのでここから先は事実と妄想のどちらの可能性も捨てず、二つの説を順番に検討していく。
・事実説:五条悟の魂は彼岸に渡りつつある。高専時代の仲間が五条を出迎えている。
少年漫画的な死後の世界が存在するという前提に立った説。五条の今際に仲間たちが現れてその健闘を讃えたのだという見方だ。灰原が七海との今際のやりとりを覚えていることが証拠になっている。
・妄想説:高専の仲間は五条が考え出したもの。全ては五条の夢想でしかない。
五条が生前考えていた通り死は当人一人のものである。『南へ』の空港に現れた登場人物は全て五条が思い浮かべたものであり、灰原の台詞はたまたま七海の考えとつじつまがあっていたにすぎない。
灰原の台詞という根拠のある事実説に比べて、妄想説は一見根拠が薄い。が、それでいて中々曲者である。五条悟の死の前後に渡って、たびたび死者との対話を否定するような描写があるからだ。
例えば渋谷事変では死者の蘇りと思しき場面が複数あったが、
いずれも反射やコピーだそう。
イタコは"魂の情報"とやらを蘇らせてんじゃん
ほな蘇りちゃうか…
そういえば乙骨のエピソードからして死者由来でなく、生き残った側が死者の声を聞きたがっていたという機序だった。
零巻で出てきたのが里香そのものだったのかは正直言って定かでないが(羂索いわく乙骨がやっていたのは「魂の抑留」らしい)、本編時系列においてはわざわざ今いる里香は呪霊里香のコピーだというまわりくどい断わりまで入れている。受け取り方は人それぞれだが、自分はこれを本編の展開に合わせた微調整だと捉えている。
というわけで、ずっと何か言いたげにしてたのを
とうとう日下部が言い切ることになった。「故人そのものと話すなんて諦めな」宣言である。直接的にせよ間接的にせよこれだけ言及があるのだから、作品におけるスタンダードは「死者とは対話できない」で良さそうだ。
つまりどういうこと?
結論を述べてしまうと、この夏油の台詞が下手なはぐらかしでもなんでもなく、そのまま模範解答ということなのだろう。
今際の時には死者が彼岸から帰って来て、自分の生き様を褒めてくれるかもしれない。けれどそんな奇跡は起きようが起きなかろうがどっちだっていい。生きている間は関係ないし、奇跡を目の当たりにした者は死後の世界の真実を墓場まで持っていくからだ――といったまとめになるのだと思う。
虎杖の台詞に寄せて言えば、死んだ後のことはわからないので、登場人物は後悔しないように生きている。この漫画のリアリティラインはそういったところに引かれているという話だ。
めちゃくちゃ高いところから物を言っている五条は何様なのか?
生前は死者との再会を否定していた五条悟だが、夏油に再会してからは「夏油に背中を押してほしかった」だの「宿儺に共感した」だの言いたい放題だ。羂索が夏油の姿をして現れた時には蘇生を否定していたので、今際まで自分の気持ちを押し殺していたのかもしれない。
五条悟はなぜ今の高専組との乖離を嘆く一方で夏油と宿儺に心を開いているのか。その答えを出すにはそもそも空港と集められた面子が何なのかを考える必要がある。
過去にあった末期のビジョン
空港の正体を考えるにあたって、それまでもたびたびあった末期のビジョンについて考えてみたい。以下にその内容を列挙してみよう。
・式神使い:夏油にやられる寸前に幻視。はっきり「走馬灯」と言っているがなぜか飼っていた犬しか出てこない。
・漏斗:すでに祓われた花御、陀艮を幻視。なぜか宿儺が踏み込んできた。
・七海:クァンタンの幻に次いで故人である灰原を幻視。
・釘崎:生死が未だ定かでないのはこの際脇に置いておくとして、この時点で存命だった呪術高専の同級生とフミちゃんを幻視。
・真希:呪力を共有していた真依の消失を幻視した。
・パンダ(の中のゴリラ核とトリケラトプス核):三つの魂の内の二つが消滅した。
こうして並べて見て何がわかるだろうか? まず末期のビジョンに現れるのは必ずしも故人ばかりではない。釘崎にとっての高専生やゴリラ/トリケラトプス核にとってのパンダ核のように死に行く者が残された者を懐かしむケースもある。
この中でとりわけ言及が多いのが釘崎のビジョン。並んでいる席は人生の席とのことだが、(いきなり知らんキャラが出てきても困るという事情は加味するにしても)高専時代の同級生とフミちゃん以外の姿はない。なんでも故郷の連中のことは全員頭がおかしいと思っていたらしい。
釘崎の故郷への偏見は特に重要だ。
呪術廻戦は内外の区別に敏感な作品だ。内に甘く外に厳しい。そういう人間が当たり前にとる態度を、折に触れて取り上げている。
中でも呪術師は内にいる者を助け、一方で外敵を排除する苛烈な集団と位置付けられている。
呪術師は呪霊を殺せる常人離れした感性の持ち主だが
呪いと人間の境界はボケやすいらしい。だめじゃん! 現に壊相と血塗戦では呪いと思って人を殺してしまい後味のも悪い思いをしている。
真人も身内と外敵を分ける恣意性と虎杖の自覚のなさにはキレてるし、
小沢優子も反省している。女子高生と長編のボスが同じ考えに至っている(違いは自己嫌悪に陥るか開き直るか)のが作品の味である。真人はまだ子供だという描写の一環だろう。
内と外の区別で言えば、末期のビジョンというのは特に身内にいて特に親しく接していた者を思い起こす走馬灯もどきだと捉えて良さそうだ。例外は宿儺だが、一緒にガーッと話すとわけがわからなくなるので後に回す。
五条は何を考えていたのか
さて、それでは五条悟にとっての内と外の区別はどうかと言うと
蘇生直後の時点で殺人に対する抵抗が薄い。人命の価値判断としては真人に近いようだ。
とまあ最強になったことで五条は人の道を外れて遠い所へ行ってしまったわけだが、それでも善悪を説く夏油の言葉には耳を傾けていた。
何も五条だけでなくイノタクもこう言っている。呪術師の職業病のようなものなのだろう。
教職者としては不健全だからやめてほしいらしい。
話を五条に戻すと、夏油に対する依存は夏油本人が呪詛師に転身した後でも続く。五条は現在の夏油の主張には耳を塞ぐ一方で、かつての夏油が示した「非術師を守る」という指針を頼りに生き始める。
同時に夏油の孤立を反省して後進の育成に着手している。
五条自身に関して言えば夏油とは弱者救済について意見が対立しても強気だったが、
実際にたもとを別ったことで身に染みたようだ。
ここまでを整理してみよう。呪術師は外敵の排除を生業としており、守るべき内と外を区別しなくてはならないが、その境界は曖昧だ。中でも五条悟は呪術師を身内だと認めていたが、非術師たちを守るべきかどうかの判定を夏油に依存していた。他と隔絶した強さを手にしてからはその傾向が悪化し、自分自身は人命に意義を感じなくなった。
となると夏油離脱後に後進の育成に着手しても状況は変わらず、末期のビジョンには蘇生前に身内だと感じていた者のみが現れたいうことらしい。…なんだか味気ない結論になってしまった。作中の描写の整合だけを追ってきたのだから当然だ。
言い換えれば五条(が実は抑止力としてえらい機能していたこと)による作中の平和は、呪術師夏油が五条にかけた人を守るという呪いのためだったと言える。天内理子の同化を否定して人のままに留めようとした二人が、皮肉なことに自分たちが人としての彩りを失い大義や呪いに駆られて動く歯車になってしまった。後から振り返る懐玉はそういうエピソードだったらしい。
五条悟の死に対して:宿儺の視点から
ここからは五条の死を取り巻く文脈について触れていきたい。まずは宿儺についてだが、五条を倒した後に宿儺が述べる理論は独特だ。『南へ』の直後の2話でそれは明かされる。
かいつまんで言えばその主張は「強者はより強者に倒されることで心情的に満たされる」「強者がそれ以外の方法で満たされようとすることは不純である」ということらしい。ワケわからん。
繰り返しになるが内と外の話をすると、宿儺は組織に所属せず身内を持たないことを賛美し、代わりに外敵同士の敵対関係をコミュニケーションと見立てている。真人が排除を終え次第忘れるような外敵も、宿儺にとっては(相手によって)忘れがたい宿敵になりうるということだ。
現に宿儺に認められた漏斗は泣いていた。対する宿儺のリアクションは「俺はそれを知らん」とのことで、後の発言を思うと『それ』とは「他者によって満たされること」を指しているのだろう。
宿儺は五条にもこの独善的な見方を適用しているが、五条は知る由もない。それどころか死力を尽くした己の敗北について思うところはあっても、五条の本懐はあくまで夏油と陣営を共にして戦うことだった。
宿儺が称賛の言葉をかけたところで、五条は初めから宿儺の尺度に収まっていなかったわけだ。一矢報いたというにはあまりにささやかだが、そこには五条だけが知る真実があったと言えそうだ。
五条悟の死に対して:正しい死
宿儺の持つ尺度の他にもう一つ、『南へ』を読み解くのに用いることができる尺度がある。1話に出てくる印象的な台詞「オマエは強いから人を助けろ」「オマエは人に囲まれて死ね」だ。
言うまでもなくこれは五条の言う「死ぬ時は一人だよ」と対極にある。五条悟は人としての範疇を外れていたかもしれないし、助けた相手の感謝に思いを馳せることもなかったかもしれない。遺してきた生徒たちにも未練はなさそうだ。
そんな五条でも死の間際には人としての周囲との繋がりを思い出して、幸福な気持ちに浸って死ぬことができた。外からはどう見えてもただ一人五条自身には人に囲まれた良き死であったという、逆説的な結末だ。
まとめ
空港は現実か妄想か
そもそも現時点では作中においてそこまで重視されておらず、どちらにとっても構わないと言わざるを得ない。参考までに作中では乙骨の里香への呪縛を除いて、故人への干渉はことごとくその可能性を否定されている。
五条悟は何様なのか
呪術師は外敵の排除を生業としており、守るべき内と外を区別しなくてはならないが、その境界は曖昧だ。中でも五条悟は呪術師を身内だと認めていたが、非術師たちを守るべきかどうかの判定を夏油に依存していた。他と隔絶した強さを手にしてからはその傾向が悪化し、自分自身は人命に意義を感じなくなっていた。夏油離脱後に後進の育成に着手しても状況は変わらず、末期のビジョンには蘇生前に身内だと感じていた者のみが現れた。
また生前との乖離のある末期のビジョンはそれ故に宿儺や高専生の知るところでなく、宿儺の独善的な人間観に当てはまるものではなかった。
…特に前者の結論は今後の展開によってはどちらかで確定するかもしれないが、当然読める範囲でしか考えていないのでその時は知ったことではない。悪しからず。
余談:なんで宿儺は死後のヴィジョンに介入してくるのか
余談の上にそこまで自信もないのでサラッと済ますが、これに関してはすでに似たような現象があることがわかっている。東堂・脹相の見た存在しない記憶だ。個人の空想の中に部外者がズケズケと入り込んでいるのだから見かけの上では近いと言わざるを得ない。
他の例を挙げると仙台で羂索が死滅回遊の開始を宣言する場面がある。この場面はちゃんと原理に触れている点で特筆に値する。
脳内世界に他人が上がりこんできたらそれは呪術の仕業だ。真希とパンダの走馬灯では明らかにNPCでない中身入りの真衣やゴリラ核・トリケラトプス核がいるが、それも互いが呪力を共有しているために起こるらしい。存在しない記憶が連続した時は虎杖の術式だと予想する向きもあったが、どうやら呪力そのものにそういう性質があるようだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?