チロとおっちゃん 前半
作・大枝岳志
絵・清世
あるクリスマスの夜のことだった。「クリスマスパーティー」と称して、公園で暖を囲むホームレスの集団が陽気に酒盛りをしていた。彼らは昔からここを根城にしていて、他に行く宛もなく、行く気さえも持っていなかった。
NPO団体が差し入れた豚汁を肴に、珍しく手に入った一升瓶を回し飲みしながら、聖夜の宴を楽しんでいると、「ボス」と呼ばれている一際体格の良い山内が腕組みをしてこんな事を言い始めた。
「いいかおまえら、来年から餌の管理は俺がする! 今じゃ足腰が弱くなった奴も出て来たし、餌を平等に分配する為に集めた餌やら仕事は一度俺の所へ持って来るように! いいな!?」
元柔道家の山内に力で勝てる者はおらず、突然の宣言に一同は俯いたまま視線を泳がせた。山内は頼りになる反面、誰よりも酒癖が悪かったのだ。自由気ままに生活出来るから「ホームレス」という道を選んだのに、山内はまるで収容所みたいな事をしようとしてやがる。皆がそう思っていたものの、それを口に出す事は躊躇われた。若者達がふざけ半分でテントを襲撃しに来る時など、それを追っ払うのは専ら山内の仕事で、彼に助けられた者も多かったのだ。
逆らうに逆らえずせっかく酒で温まった体が急激に冷えて行くのを感じ始めた頃、ある一人のホームレスが立ち上がった。
「おらぁ、反対だよ」
声を上げたのは日頃から「お人好し」と呼ばれている相田というホームレスで、街の人達からは「おっちゃん」の愛称で親しまれていた。おっちゃんの言葉に、山内は腕組みを解かずに声を荒げた。
「相田さんよ、文句があるなら言ってみろよ! それともお人好しのあんたに餌の管理が出来るって言うのかい?」
「その管理だなんだってのが、おらぁ性に合わねぇや。無理無理」
「だったら足腰弱った奴らは全員野垂れ死ねって訳か?」
「そういう時はお互い様でよ、気軽に助け合ってやれば良いだんべよ」
「そんな甘い考えだから皆自分勝手になるんだろう!」
「けっ、下らねぇや。今さら何言ってんだんべか。大体、ここに居るのは今まで散々好き勝手に生きて来た連中ばかりじゃねぇか。あんたも俺も、そうだんべよ」
「なんだとこの野郎! もういっぺん言ってみろ!」
おっちゃんに殴り掛かろうとする山内をホームレス五人掛かりで必死に止めたのだが、その間にテントに戻ったおっちゃんは愛車のリアカーに荷物をまとめ始めていた。それに気付いたホームレス仲間が今にも泣き出しそうな顔でおっちゃんに駆け寄って行く。
「相田さん、ここを出て行ったらダメだよ! 俺達はここを出て行ったら食べて行かれないんだから! 死んじゃうよ!」
「ジンさん、おらぁ野垂れ死にでも何でも構いやしねぇよ。誰かに指図されるくらいなら、こっちから出て行ってやらぁ」
「出て行くって、一体どこ行くって言うんだよ!? 考え直してくれよ、なぁ!」
「おらぁどのみち天涯孤独よ。どこにだって行ってみせらぁ、じゃあな」
「相田さん!」
背中から響く自分の名を呼ぶ声や、山内の怒声に振り返る事なく、おっちゃんは長年住み続けていた公園を出て行った。
相田賢二、五十八歳。小さな頃から親に「人が好すぎる」と叱られるほど、おっちゃんはお人好しだった。
小学校時代はせっかく山で採って来た大きなクワガタを見学に来た友人に無償であげてしまったり、父に買ってもらった野球ボールやグローブを「僕よりもっと野球が好きそうだから」という理由のみで友人にあげてしまう事もあった。親が「お人好し」に気付くたび、こっぴどく叱られるのだが、親に叱られている間でも「いいことをした」という満足感に少年時代のおっちゃんは浸っていた。
中学に入る頃にはカツアゲされたり意味のない暴力を受けるようになった。しかし、暴力を受けようとも何をされようとも、周りの同級生が楽しそうに笑ってくれるのが嬉しかった。
中学時代のおっちゃんは「いじめられているのでは?」と心配して声を掛けて来た教師に「みんなと遊んでいるだけです」と、平気で笑顔を見せたりするような生徒だった。
中学を卒業すると時代的な背景もあったが高校へは行かず、焼却炉などの煙突を掃除する清掃員として働き始めた。親に金を掛けさせるくらいなら働いた方がマシだと思ったのだ。
給料は安かったがおっちゃんは文句も言わず、毎日真っ黒になりながら真面目に働いた。そのうち恋人が出来て、結婚もした。
贅沢はしなくとも幸せな暮らしを夢見ていたが、ある日おっちゃん夫妻は三歳になったばかりの息子を交通事故で失ってしまった。白昼のひき逃げだったのだが目撃者はなく、車種はワゴン車だと特定出来たものの、とうとう犯人は捕まらなかった。
そこへさらなる追い討ちを掛ける出来事が起こった。
おっちゃんはその「人の好さ」を利用され、あちこちから借金の連帯保証人を頼まれ、妻が止めるのを「いいから」と聞く耳も持たずに引き受けてしまっていた。そして、金を払わずに逃げ出した友人の代わりに莫大な借金を背負う羽目に遭った。
毎月の給料を大きく上回るほどの多額の返済に追われるうちに家賃すら払えなくなり、いよいよ生活もままならなくなった二人は離婚した。
仕事場にまで借金の取り立てが来るようになると、おっちゃんは真面目に勤めていたはずの会社をクビになった。それからすぐに借金取りから逃げるようにして行方をくらまし、大都会に辿り着いてすぐにホームレスとなったのだった。
ホームレスになってもお人好しなのは相変わらずで、食べるのに困っている仲間がいると自分の食糧を差し出してまで仲間に食べさせたりしていた。
おっちゃんの胸元にはいつも小さなお守りがぶら下がっていて、その中には事故で亡くなった息子の写真が今でも収められている。
クリスマスの夜に公園を出て行ったおっちゃんが辿り着いたのは街外れの河川敷だった。そこから食糧が拾える餌場まで歩いて三十分は掛かるのだが、人はもう懲り懲りだと思ったおっちゃんは誰にも干渉されない自由気ままな暮らしを河川敷で営む事に決めたのだった。
一月下旬の寒い夕方の事だった。空缶回収が終わって千円に満たない金を握り締めながら河川敷のテントへ帰ってみると、わずかに開いていたテントの隙間から何かの生き物が中にいるのがちらりと見えた。
なるべく音を立てないようにテントの中を覗き込むと、まだ大人になり切っていないほどの小さな茶トラの猫が尻尾を丸めて眠っているのが見えた。
起こさないようにその小さな頭をそっと撫でると、猫は一瞬体をブルッと震わせた。そしてゆっくりと起き上がると、おっちゃんと目を合わせてから欠伸をした。猫は大きな目でおっちゃんを眺めると、ゆっくりと差し出した手に頭をすり寄せ、ペロペロと嘗め始めたのだった。
「なんだぁ、迷子か? ずいぶん可愛い猫だんべなぁ、おまえも腹減ってるんか?」
猫は当然返事などしなかったが、「ニャン」と小さく鳴いておっちゃんの身体にまとわりついた。腹が空いてるのは可哀想だと思い、近くのコンビニで牛乳を買ってくると猫は喉をゴロゴロと鳴らしてそれを飲み始めた。
「おまえは舌がチロチロしてるから、名前は「チロ」だ。チロ、おまえは今日から俺の相棒だ!」
牛乳を飲む姿を嬉しそうに眺めるおっちゃんの目には、チロと亡くなった息子が重なって見えていた。
短い舌で一生懸命に牛乳を飲むチロを眺めていると、小さな両手を使って上手にコップを握り、大好きだった林檎ジュースを飲んでいた息子の姿を思い出す。小さくて、何よりも愛しい存在だった。
その命を守り切れなかった事を悔やみ続け、背負い続け、おっちゃんは今まで生きて来た。せめてこの猫の命だけは守ってやろうと、おっちゃんはその時固く決意したのだった。
やがて春になるとお花見のシーズンがやって来た。酔客が捨てて行くゴミの山はおっちゃんにとって宝の山だった。次から次へと空缶を回収していると、停めてあったリアカーの方から若い女の子達の声が聴こえて来た。
「かわいいー!」
「男の子かな? 女の子かな?」
おっちゃんの引くリアカーにはいつもチロが乗っている。その日のチロは桜の花弁が積もるリアカーの上で日向ぼっこをしていたのだが、偶然目にした客が立ち止まると、チロはたちまち花見客の人気者となった。そんな光景をおっちゃんは父親のような気持ちで、優しく温かく眺めていた。
空缶を回収し終えて引取業者に持っていくと、頭を茶髪のパンチパーマにしている威勢の良い女主人「あきちゃん」が笑顔で出迎えた。
「あきちゃーん、今日の分頼んだよ!」
「いらっしゃーいチロちゃーん! あー、いっつも可愛いわぁん!」
あきちゃんはおっちゃんや空缶よりも、ずっとチロに夢中だった。チロがいるおかげでチップも弾んだ。
「カンカンが千五百円、チップは二百円! これはチロちゃんの餌代だかんね? お酒に使っちゃダメよ?」
「チロと一緒に呑むから大丈夫だんべぇ!」
「馬鹿! 猫に酒なんか呑ませたら死んじゃうわよ!」
「わーかってるよ! 心配すんなって」
「全く心配だわぁ。おっちゃんさぁ、ちゃんと食べてるの?」
「心配ねぇよ。大丈夫大丈夫!」
「何か困ったら言いなさいよ? ねぇ?」
「大丈夫だって! じゃあ、またな!」
その頃のおっちゃんは毎晩、餌にありつける訳では無かった。繁華街に並ぶコンビニや食堂などの餌場は公園に居た山内達の縄張りだったのだ。
大量発注が掛かる週末はコンビニの廃棄弁当も多く、公園のホームレス達が食べる分は十分に確保出来るはずだった。
ある日、隙を見ておっちゃんが弁当を拾いへ行くと、蓋が開けられた弁当のゴミ袋の中に小便が掛けられていた。
やったのは山内に違いないと思い、おっちゃんは諦めた。
それでもリアカーを引きながら街中を回っていると、チロのファンが時折差し入れを持って来てくれる事もあった。弁当がない時などはキャットフードを分けて食べたり、昔から世話になっているボランティアスタッフの金森という眼鏡の青年が時々食料を持ってテントを訪れる事もあった。
その時はいつも小言を言われるので、おっちゃんはありがたいと思いつつも金森の事が苦手だと感じる時もあった。
「相田さーん、いるー?」
その声がテントの外から聞こえて来ると、おっちゃんは俯いて思わず頭を掻いてしまうのであった。
「あぁ、うん。いるよ」
「ごめんねー、入るよ。すっかり暖かくなって来たね」
「そうだいね、うん」
「これ、食べ物ね。こっちは飲み物。あ、チロちゃんだ! 相変わらず君は可愛いなぁ」
「今日はあれか、またシェルターの話をしに来たんか?」
おっちゃんは冬以降、金森からシェルターに入るように強く勧められていた。そこを足掛かりに自立支援を受けるようになれば、しっかりとした部屋に住めて医療も受けられるようになると聞かされていた。しかし、一時的に世話になるシェルターの生活は相部屋だったり門限があったり酒が買えないなど制限があったりと、おっちゃんにとっては想像するだけで苦痛になってしまいそうな事ばかりだったのだ。
「シェルター」という単語に金森は苦笑いを浮かべながら咳払いをした。
「まぁ、今日は「入れ」って話をしに来たんじゃないんだ」
「そうなんかい?」
「おっちゃんに無理言ってもなぁって、最近僕も思うようになったんだよ」
「まぁ、そのうち考えてはみるけどよ……」
「おっちゃんさぁ、山さんと揉めたじゃない?」
「まぁ、うん。今さら謝る気もねぇけどな」
「山さんね、股関節痛めちゃってさ。今、シェルターに入ってるんだよ」
「ふぅん……そうかい」
「……山さんがさ、入ってみたら居心地悪くないってさ。新しい仲間も出来たみたいだし」
「でもよ、結局の所「国の世話」になれって事なんだろ? あれしろこれしろなんて言うのはよ……俺には合わねぇよ。大体、あいつと同じシェルターなんかに入ったら殺し合いになるかもしれねぇぞ?」
「やだなぁ、冗談やめてよ!」
「冗談じゃねぇよ、山内が悪いんだかんよ。あー怖い怖い」
「おっちゃん、身体が資本なんだから何か困ったら何でも言ってよ?」
「おう、百万円くれよ」
「その冗談もやめてよ」
テントを後にする金森を見届けながら、おっちゃんは公園に居た頃の仲間の様子を思い浮かべていた。皆年寄りばかりで、誰かの助けがないと生きていかれない者もあった。山内がシェルターに入ってしまったのなら、彼らは一体どうなってしまうのだろうか。そんな事が頭を過ぎるとおっちゃんは居ても立っても居られなくなり、チロをリュックに入れ、元住処の公園へと歩き始めた。
三十分掛けて訪れた公園だったが、あからさまにテントの数が減っていた。予想はしていたものの、一番大きな山内のテントもやはりなくなっていた。おっちゃんが「おーい」と声を掛けると、黄色い小さなテントから馴染みの顔が飛び出して来た。
「相田さん! 戻って来てくれたんかい!?」
飛び出てきたのはおっちゃんを止めようとしたジンさんだった。元々細い身体つきだったのだが、だいぶやつれてしまっているように見えた。
「ジンさん、ずいぶん痩せたんじゃないんかい?」
「足が悪くなっちゃってさ、今じゃ缶拾いもあんまり出来ないんだよ」
「缶潰すんに一番体力使うからなぁ。ちゃんと食べてんのかい?」
「いやぁ……まぁ、食ったり食わなかったりだよ」
ジンさんから話を聞いてみると、おっちゃんが公園を出て行った次の日から山内による恐怖政治のような暮らしが始まったのだという。
集めた食料を平等に分配すると約束したはずだったが、山内が好みのものがあればそれらは全て没収され、仕事も山内が仲介人のようなことをやり始めたおかげで彼に手数料を払わなければならなくなった。
文句を言う者は彼による鉄拳制裁を受け、仕事も食料も奪われたのだという。その影響である高齢のホームレスが栄養失調になり、一命は取り留めたものの救急車で運ばれる騒ぎにまでなったと聞かされた。
「それじゃあ、まるで人殺しじゃねぇか!」
「本当だよ、何が管理するだよ。適当な事ばっかしやがって。山内がいなくなったおかげで清々したよ」
「ここに残ってる連中は食えてるのかい?」
「まぁなんとか、助け合いながらやってるんだ」
「そうかい。しかし、ひどい話だんべや」
「あの、ここだけの話だけどさ……」
「あぁ?」
「山内の野郎、昔人を殺したことがあるんだってよ……あ、俺から聞いたって言わないでくれな?」
「ジンさん、どういう事だよ」
「なんでも車運転してて、子供撥ねちゃったらしいんだわ。ワゴン車でさ。もう三十年も前の話で、即死だったんじゃねぇかって……ヤバいと思ったらしくて、会社も辞めてそれでホームレスになったんだって……だから俺はいくらでも人殺せるんだーなんて、酔っ払って自慢気に言ってやがったよ」
「それは……どこで起きた話だい?」
「いや、場所までは分かんねーけど……」
「そうか、うん。そっか、ありがとよ」
おっちゃんは公園を出ると、そのまま山内の入っているシェルターへ向かった。ボロボロのリュックから顔だけ出しているチロがどこか落ち着かない様子でおっちゃんに「ニャア」と鳴いたが、おっちゃんは御守りを握り締めながらズンズンと歩き続けた。
シェルターへ着き、職員に山内を訪ねて来たと告げるとすぐに案内された。ジャンパーの内ポケットには空缶を潰す為のハンマーが入っている。それを思い浮かべながら、階段を上がって行く。
怒りに滲んだ目で見る景色が、歪んで行く。あいつを殺して、俺も死んでやる。そう思いながら、一歩、また一歩と進んで行く。
職員が引戸の一室をノックすると、聞き馴染みのある声が聞こえて来て、すぐに開かれた。
「なんだい、相田さんかい! 狭い所だけどよ、入ってくれよ!」
そう言って微笑んだ山内の大きな頭のてっぺんに目を向け、ハンマーを撃ち下ろす光景を想像する。こいつを、一発で仕留めてやる。そう思った矢先だった。
「ニャーア」
リュックから頭だけを出していたチロがどこか悲しげな、長い鳴き声を廊下に響かせた。
その声を聞いて、おっちゃんはふと我に帰った。
「おお! 猫ちゃん連れて来たんかい! 可愛いなぁ、さぁ入った入った!」
チロがリュックの中で爪を立てる音がぶちぶちと鳴り出すと、職員が怪訝な顔をしながら声を顰めて言った。
「あの、相田さん……ペットは原則持ち込み禁止なんですよ……そのぉ……」
その声に、おっちゃんは照れ臭そうな笑みを零して返した。
「あ、あぁ! ごめんね、知らなかったもんで。あの、今日の所はこれで」
「いえ、短い時間でしたら大丈夫ですから」
「ううん、いいのいいの。山内さんの元気そうな顔も見れたし、良かった良かった! うん、また来るから、じゃあね」
「相田さん、えっ、もう良いんですか? 相田さーん」
急いでその場を離れると、背中から「変わったヤツなんだよ」という声が聞こえて来た。おっちゃんはシェルターを飛び出した途端、泣き出した。
「おまえを守るって言ったんだもんな、約束したもんな……おらぁ、馬鹿やるとこだったよ……おまえが止めてくれたんだな……こんなちっちゃいのに、おまえの方が利口だよ……おまえが止めてくんなかったら……俺は……」
おっちゃんは路上の真ん中に座り込み、泣き崩れてリュックごとチロを抱き締めた。ナイロン越しでも伝わるチロの温度は、次々と溢れ出る涙の粒になった。
それからもう二度と、おっちゃんが物騒な気を起こす事はなくなった。
夏になるとおっちゃんは河川敷のすぐ側にある野球グラウンドに通うのが日課になった。
いつもは草野球チームが練習に使ったりしているが、夕方になると地元の子供達が集まってグラウンドに元気な声を響かせるのだ。
自分の子供と叶えられなかった夢をぼんやり重ねながら、おっちゃんはなけなしの金で時々子供達にお菓子を買って配ったりしていた。そんな日はおっちゃんの大きな楽しみの一つ、酒を我慢した。
いつもは遠くから座って眺めているだけだったが、キャッチャーをしていた太っちょの少年がおっちゃんに大きく手を振るとグラウンドに大声を響かせた。
「おっちゃーん! 打席立ってよー!」
「ええ? 俺が!?」
照れ臭そうにおっちゃんが近寄ると、少年達ははしゃいだ声を上げ始める。
おっちゃんがグラウンドへやって来ると、一塁を守っていた陽気な少年が声色を作り、アナウンスを始めた。
「七番、吉田くんに代わりましてー、百番、相田選手の入場でーす」
「なんだよ、おらぁ百番ってか! まいったな」
少年達の笑い声に包まれたグラウンドだったが、バッターボックスに立つとおっちゃんは真剣そのものの表情になった。それを見て、ピッチャーの少年もまた真剣な表情になる。
キャッチャーの出したサインに首を縦に振った少年が、力を込めて一球を投げた。
夏の夕暮が近付き始めたまだ青の残る上空に、真っ白い球が一筋の線を描いて打ち上がる。
結果はフライ、アウトだった。
それでもおっちゃんはとても嬉しそうな顔を浮かべながら、いつも座っている場所へと戻って行った。
子供達が帰る頃になると、テントの前を通り過ぎる「おっちゃん、またねー!」という声が河川敷に響き渡った。
秋になり、寒さを感じる頃になるとチロは季節のせいなのか昼寝をする時間が増えるようになった。
「チロ、あんまり寝ると夜中眠れなくなるんべや」
そう言いながらリアカーの上で眠るチロの頭を撫でてみたが、チロが起きる様子は無かった。すっかり安心しているのか、無防備に腹を見せて眠るチロの姿におっちゃんは思わず笑い声をあげた。
大きな銀杏の木が並ぶ通りにリアカーを停め、真っ黄色になった木々を眺めているとチロのファンの女子高生がおっちゃんに缶珈琲と猫用缶詰の差し入れを渡した。
温かい珈琲が季節に合うようになったのを肌で感じながら、おっちゃんは寝起きのチロと銀杏並木を静かに眺め始める。音もなく落ちて行く黄色い葉っぱを不思議そうにチロが目で追うと、おっちゃんはチロに言い聞かせるように優しく言葉を呟いた。
「夏が来て葉っぱが緑色になって、秋になるとこうやって葉っぱが落ち始めるんだな。落ちた葉っぱが土に還っていって、冬になるとまっさらになるんだ。でもな、木っていうのはちゃんとその間も生きているから、また春が来た時に花を咲かせたり、緑が芽吹いたりして季節を知らせてくれるんだよ。なぁ、チロ。一年中葉っぱが付いてないのは、馬鹿な俺達が季節を忘れないようにするタメなんじゃねえかなって、俺は思う訳。どうだ、俺も中々の詩人だべ?」
そう尋ねてみたが、チロは退屈そうに後脚で首を掻いて欠伸を掻くと再び寝転んでしまった。こりゃあ分かってねぇな? と笑いながらおっちゃんが言うと、リアカーを引いて並木道を歩き出した。
銀杏並木から花吹雪のように舞い落ちる黄色い葉の中を、おっちゃんとチロは大きな銀杏の木を見上げながら、ゆっくりと静かに並木通りを歩き続けた。
後半