藤子不二雄Ⓐインタビュー(2006/6/5) まんが道を語る
藤子不二雄Ⓐ。今年で七十三歳にして、いまだ現役の漫画家!『忍者ハットリくん』、『怪物くん』、『プロゴルファー猿』、『笑ゥせぇるすまん』……。藤子・F・不二雄さん(藤本弘)とともに、数々の傑作漫画を生み出してきた永遠の漫画少年。僕らが子供の頃、テレビでは毎週のように藤子不二雄作品が放映されていて、それをとても楽しみにしていた。ドラマ化された『まんが道』、映画化された『少年時代』……。藤子Ⓐ作品を読んでいると、年齢に関係なく少年の心で見た世界に僕らを誘ってくれる……。
今回のインタビューでは、Ⓐ先生が歩んでこられたこれまでの『まんが道』について語って頂きました。
――先生の連載されている『まんが道』(※1)大変楽しみに読ませて頂いているんですけど、これは先生の自伝とも言うべき、ある意味セミドキュメンタリーですよね?
藤子Ⓐ ええ、そういうことですね。
――「仲間」や「ライバル」と刺激し合いながら、ものを創るということにおいて、『まんが道』は格好のテキストだと思うんですが、今回そのあたりのお話をお伺いできたらな、と。
藤子Ⓐ ええ。
――そこでまず、藤子・F・不二雄さん(※2)手塚治虫先生(※3)寺田ヒロオさん(※4)……この三人は藤子不二雄Ⓐ先生の創作活動においてそれぞれ重要な位置を占めてると思うのですが、それぞれ三人との出会いについてお話をお聞かせ願えますか?
※1 『まんが道』 一九七〇年連載開始の藤子不二雄Ⓐによる自伝的漫画。その後掲載誌を変えながら現在ビックコミックオリジナル増刊号に『愛…知りそめし頃に…』編を連載中。
※2 藤本弘(一九三三〜一九九六) 漫画家。ペンネームは、藤子・F・不二雄。小学校で安孫子素雄と出会い、漫画の合作を始める。代表作に『ドラえもん』、『キテレツ大百科』、『パーマン』、『エスパー魔美』など。
※3 手塚治虫(一九二八〜一九八九) 漫画家。代表作に『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『ブラックジャック』、『火の鳥』など。
※4 寺田ヒロオ(一九三一〜一九九二) 漫画家。新漫画党総裁。代表作に『スポーツマン金太郎』、『背番号0』、『暗闇五段』など。
『藤本弘さんとの出会い』
藤子Ⓐ 藤本君に会ったのは昭和十九年……戦争中でね。僕の親父は富山県の氷見というお寺の住職だったけれど、小学校五年の時に急死してね。うちの寺は六百年続いた古い寺で、世襲制ではないので新しい住職が来るわけ。それでうちの家族は寺を出なくてはいけなくなって、僕は高岡に転校したんだけど、高岡っていう所は氷見より大きな街でね、田舎から来た僕は無視されて。独りで休み時間に漫画って言うかな、まあ絵を描いていたんだよね。時代劇か何かの絵だったと思う。
そうすると、ひょろりとした少年が寄ってきて、「お前、漫画うまいのう」って。それが藤本君だった。「じゃ、お前も絵描くの?」「描くんだ」って藤本君の描いたものを見せてもらって、びっくり仰天! 僕は時代劇の挿絵を真似しながら描いてたんだけど藤本君のそれは完全な漫画でね、しかも非常にオリジナリティーあふれる漫画描いてたんだよ。それで驚いて「イヨ~ッすごい!」って。
で、ぼくはチビ、藤本君は背が高くてね……。二人ともどっちかって言うとある意味で、登校拒否児童に近い(笑)。たまたまそういう二人が出会ったもんで毎日一緒になって、ほんとに仲良しになってね。
藤本君のお父さんというのは郵便局長でね、ものすごく厳格で。当時、漫画なんて読むのも駄目だし、描くことなんてトンデモナイっていう時代。特に富山はすごい教育県だったし。
――保守的な県だったんですか?
藤子Ⓐ ええ。だから隠れて描いてたわけ。
――当時、漫画ってあまり表立って描けなかったんですか?
藤子Ⓐ 描けない、描けない。漫画なんてとんでもない。ただ、うちは親父いないし、お袋は柔軟だったから。藤本君も学校の帰りにうちへ来てね、二人で一生懸命漫画を描いてた。そして僕は高岡中学っていう普通の中学、藤本君が工芸学校の電気科っていう専門学校へ行くんだけど、この学校がまた隣同士でね(笑)。毎日学校が終わると校門で待ち合わせして二人で帰るんだ。宿題もしないで二人でとにかく漫画を描いてたんですよ。
『手塚治虫著「新宝島」との出会い』
藤子Ⓐ 昭和二十二年に手塚先生の『新宝島』(※5)という漫画が出版されたんですよ。富山は漫画なんか一切いれないんだけど、でも文苑堂という書店にその本が一冊だけあった。手塚治虫っていう人はそれまでにも毎日小学生新聞に『マアちゃんの日記帳』っていう四コマ漫画描いてたりしたんだけど、その絵がね、もうほんと僕ら今までに見たことのないタッチの絵だったんですよ。線がものすごく洒落てるっていうかな、スマートっていうか。
――ディズニーとかの影響ですか?
藤子Ⓐ そう、ディズニータッチの。それが僕らとしてはすごい斬新でね。その本を藤本君と公園へ持ってって二人で見たんだよ。なぜこの本がすごいかって言うと、表紙にね……昭和二十二年なんだけど、『新宝島』っていう漢字のタイトルのその上に、ローマ字で「SHIN TAKARAJIMA」ってレイアウトされてる。
こういう漫画の本って初めてだったんだよ。しかも開くと小説みたいに目次がついているんだ。最初の「冒険の海へ」ってページを開いてびっくりしたのが、少年探偵がオープンカーで鳥打ち帽かぶって港へ疾走するって場面がある。台詞が二ページ、三ページひと言もない。車があっちからこっちに向かってきて横に走って向こうへ行くっていう場面なんだけど、それを見て、僕らは「まさにこれは紙の上に描かれた映画だ!」と思ったんだ。それまでの漫画って人物が出てくるとアップとかって一切ないわけ。舞台劇を見てるような感覚っていうのかな。ところが手塚先生はそこへ映画的な手法を持ち込んだ。あの当時、大阪で出た漫画だったんだけど、四十万部売れたんだ。こんなことなんかあり得ないよ。それはもう全国みんな、石森章太郎氏(※6)も赤塚不二夫氏(※7)もこの『新宝島』を読んで、「まさに漫画の革命だ!」と衝撃を受けたんだよ。
それまでは、僕も藤本君も漫画は好きだけど漫画家になろうとまでは思わなかった。でも、この『新宝島』を読んだ当時、中学二年だったんだけど「よし! 漫画家になろう!」って漫画家を目指したわけですよ。あれはほんとにすごい「出会い」でね。それでもあの頃、漫画家目指して東京へ出るなんていうのは全く夢の時代でね。そもそも漫画家はどうやって生活してるのか、全く分からないんだから。
※5 『新宝島』 一九四七年発行の冒険漫画。原作・酒井七馬 作画・手塚治虫 戦後漫画のエポックメイキングな作品として当時、数多くの少年少女に影響を与えた。
※6 石森章太郎(一九三八〜一九九八) 漫画家。代表作に『サイボーグ009』、『仮面ライダー』(原作)、『ホテル』など。
※7 赤塚不二夫(一九三五〜) 漫画家。代表作に『天才バカボン』、『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』など。
『漫画家になる気はなかった』
藤子Ⓐ それから卒業して進路を決めなきゃならないんだけど、僕はたまたま伯父が富山新聞っていう新聞社の重役やってたから、まあ、縁故入社で、絵を描けるってことで広告部に入ったの。当時、広告は写真じゃなくて絵で描くんですよ。でも、僕の描く線が漫画的な線だからどうも信憑性がない(笑)。これは無理というのでその後、学芸部に異動になって、ラジオ欄を担当したり一面では政治家の似顔絵なんかも描いたりしてた。当時、日本は吉田茂、イギリスはチャーチル、アメリカはアイゼンハワーっていうすごい時代でね。その似顔絵を描いてたのが朝日新聞は清水崑さん(※8)、読売新聞は近藤日出造さん(※9)、富山新聞は安孫子素雄(笑)。それはもう仕事が面白くてね。
藤本君はというと会社に勤めないでずっと家で漫画描いてて。「時期が来たら一緒に東京へ出よう」って言われてたんだけど僕はほんと二年間一切忘れてた(笑)。だって仕事は面白いし、伯父は社長になってね、月給はいいしね。何の不満もなかったんだよ。そうしたら、ある日突然藤本君が来て「おまえ新聞社辞めろ」って言う。それで僕はびっくりして。
――いきなり言われたんですか?
藤子Ⓐ いきなり!
――前触れもなく?
藤子Ⓐ もちろんそういう話はしてたけど、彼はパッと言う人だから。「何で?」って聞くと「東京へいよいよ出なきゃいけない」って言うんだ。でも、彼も一人で出る度胸はないわけ(笑)。「二人で、お前が行くんなら行く」と。僕も「ええ~っ!」となって、よほど断ろうと思ったんだけど「ちょっと時間をくれ、考えさせて」とその場では藤本君に言って。うちに帰ってお袋に相談したんだ。僕は、お袋は当然、息子の僕を新聞社に縁故入社させたわけだから、絶対反対すると思ってた。それで「お袋も反対してるし……」って理由をつけて藤本君に断るつもりだったの。そしたら、うちのお袋、何て言ったかというとね、「あんたの好きなようにしなさい」って僕に言ったんだ。これでまた悩んだんだよ(笑)。僕も新聞社の仕事はそれなりにやり甲斐があったけど、『漫画』に対する夢が心の底にしっかりとあったんだね。
……当時二十歳かな。とうとう漫画家になることを決心して新聞社を辞めよう、と伯父のところに行ったら、今度は伯父が怒ってね。「いいかげんにしろ!」と。「二年経ってようやく役に立つようになったのに、辞めるって言うんじゃ、もうお前の面倒は見ないぞ!」って言われてね。でも言っちゃった手前だからとにかく頭下げて。
※8 清水崑(一九一二〜一九七四) 漫画家。朝日新聞で政治漫画を担当した。代表作に『かっぱの川太郎』など。
※9 近藤日出造(一九〇八〜一九七九) 漫画家。読売新聞で政治漫画を担当した。日本漫画協会初代理事長。
『いざ「まんが道」へ!』
藤子Ⓐ 昭和二十九年六月。藤本君と一緒に東京に出てきたんだけど、まったくのゼロからのスタートでね。ただあの頃の雑誌は「小説」「絵物語」それから「漫画」って三つに分かれてたんだけど、手塚先生の出現によって小説と絵物語が減って段々「漫画」が増えてきたの。ところが漫画家の新人がいない。だから僕らはその年の暮れになる頃には連載五本持ってたね。本誌に挟む別冊付録なんかも受けたりして、ほんと最初の半年間は一回も布団敷いて寝たことないくらいだった。漫画家の描くスピードっていうのは先天的なものでね、それは円を描かせると一番わかる。たとえば手塚先生なんかはコンパスも使わないでフリーで「ビュー」っと、ものの0コンマ何秒で引くんだね。石森章太郎も天才。この二人は本当に速い。ところが僕とか藤本君とか赤塚君は「てってってって」って(笑)、四分の一くらいのスピード。僕らは手が遅かったから、時間をかけてたくさんの量をやらなきゃならないから徹夜しないとやれないっていう時代だけどね。その頃は漫画が盛り上がってきた時期だったから、僕らの所にもどんどん依頼がきて、またそれを受けちゃって、大失敗してほとんど落としてね(笑)。
――あそこは毎回読みながら汗が出ます。「ゲンコウオクルニオヨバズ」って電報が……。
藤子Ⓐ そう、よく知ってるね。そうなんだよ。あの電報、あれは牧野さんって当時『なかよし』の大変な編集長でね、創刊号ですよ。僕ら別冊を頼まれてね。しかもジャン・バルジャンの『ああ無情』っていう連載をくれたんだけど、元日から描かなかったら本当に間に合わないのに、十日の締め切りの時になっても表紙もできてなかったの。
――何でその時はそんな気分に浸っちゃったんですか?
藤子Ⓐ それまで半年間やってた疲れがド~ンと出たんだね。田舎に帰るとコタツがあるでしょ? あれもいけない(笑)。もうこっち描いてるとあっちが間に合わない、あっち描いてるとこっちが間に合わないっていうジレンマになるし、催促の電報が各社からドンドン来るわけね。そのうちに「ゲンコウオクルニオヨバズ」って来たときに僕も藤本君も「やった~!」って(笑)。
――「やった~!」って思ったんですか!? 解放されたから?
藤子Ⓐ そう、もう描かなくて済むと思ったからね。で、あっちも駄目こっちも駄目、二十日過ぎたらもう一切バタ~ッと。もうこりゃ駄目だと。でも僕もいまさら富山の新聞社に戻るわけにはいかないし。それで二月のはじめに東京出てきて、牧野さんにお詫びの電話入れて。そうしたら「藤子です」って言ったとたんガチャ~ンってね。もうそれだけ。牧野さんは当時の漫画の世界では帝王みたいな人でね、「講談社の牧野さんに嫌われたら生きていけない」って言われてたくらい。それから手塚先生に新年の挨拶をしに行ったら先生に「君たち何かやったの?」って言われたんだけど「えぇ? 何も」ってとぼけたの(笑)。そしたら手塚先生が、この間編集者が来て「誰かいい新人いませんか?」って聞かれたから僕たちのこと紹介したんだけども「藤子不二雄? とんでもない!」って言われたって……(笑)。
――もう噂になってたんですか……。
藤子Ⓐ 完全に。牧野さんからブワ~っと通達があってね。結局それから一年間はほとんど仕事なし。
――破門状みたいな(笑)。
『寺田ヒロオとの出会い&トキワ荘の仲間たち』
藤子Ⓐ 寺田ヒロオさんっていう兄貴みたいな人とトキワ荘(※10)で出会ったんだけど、この寺田さんっていうのはすごい人でね、僕より三つ上なんだけど、身長が一メートル八十近いんだ。身体も大きいし顔も立派。しかも漫画家になる前は新潟の電電公社の野球部でピッチャーやってたような人でね。後で新聞見たら「寺田完封」、「寺田また完封」ってもうすごいんだ。そういう人が一生野球で食っていけるのに、なぜか漫画が好きなんだよ。
――野球人生を投げ捨てて。
藤子Ⓐ 投げ捨てて、上京してトキワ荘に住むことになって。その半年後くらいに僕らが手塚先生の(部屋の)後に入れてもらってテラさんの向かいに住んだんだ。そのうち「新漫画党っていうグループを作ろう!」って言って、トキワ荘の部屋が空くたびに見込みつけた友人を粉かけて住まわせて(笑)。一番最初に来たのが『ラーメンの小池さん』の鈴木伸一氏(※11)。彼は下関から漫画家で出てきて、今は日本を代表するアニメーターになってるけどね。それから今度は石森章太郎氏がどっかの変なアパートから……。
――ああ、あの鳥の巣みたいな(←漫画で読んだ)。
藤子Ⓐ そうそう、とんでもない所にいてね(笑)。ちょうど部屋が空いたもんだから彼を入れて。それから赤塚氏もどっかの工場に勤めてたんだけど辞めて入って……っていう風にトキワ荘に入れてったんですよ。その中でテラさんは『背番号0』っていう人気のある野球漫画を描いてたんだけど、僕も藤本君もその頃は仕事らしい仕事はしてないし、石森氏はちょっとやってたけどまだそれほどでもないし、赤塚氏は描きたくないのに少女漫画を描いてて、石森氏の手伝いみたいなことをやってたんだけど、とにかく毎日昼間から四~五人いるわけ。それが集まってね。テラさんっていうのは親分肌で兄貴分の人だから、彼の部屋に行ってサイダーに焼酎まぜた「チューダー」、それからキャベツを切って炒めてね、ワイワイみんなで話してるんだけど、漫画の話って言うのはひと言もしないんだ。
――お互いの作品についても?
藤子Ⓐ 一切言わない。
――それは誰かがそうしようと言ったわけではなく?
藤子Ⓐ なんとな~くそうなったんだね。それはなぜかというとみんな作風が違うわけですよ。例えばテラさんという人は井上一雄氏(※12)という昔のピシッとした漫画家が大好きでね。それで僕らと石森氏、赤塚氏は手塚系。鈴木氏はこれまた別のアメリカのスタインベルグ(※13)とかそういう漫画が好きで。で、つのだ氏(※14)は島田啓三さんっていう戦前の漫画家のお弟子さんで。これ、みんな作風が違うんだよ。
――違いますねぇ。
藤子Ⓐ だからお互いの作品のことを言うのはやめようと。ほめてもらうのはいいけど批判されるとカチンとくるからね。だからひと言もお互いの作品の話はしないで、映画の話だとか女性の話だとかね。またそれが楽しくて、僕らも仕事ないわけだから宴会も夜十時くらいまでやってるわけですよ(笑)。そしたら下の階の人がドンドンと天井を叩くわけ。
――うるさいぞと(笑)。
藤子Ⓐ うん、それで解散して部屋に帰るんだけども、夜中トイレに行くとね、テラさんの部屋も石森氏の部屋も電気がついてるの。漫画描いてるんだよ。でも僕は何も描くものがないから、あとは寝るだけだけど、なんか寂しくてね。「そのうち漫画の仕事こねえかな~」と待ってたんだけど。普通はいわゆる「持ち込み」って自分から編集部に頼みに行くんだけど、でも僕も藤本君も非常にプライドが高いから、持ち込みってしたことがなかったわけ。でもある時「一回持ち込みでもやるか」って言って八ページくらいの短編描いて、ある出版社に持ってったの。そうしたら編集者が漫画のケチをつけるんだ。するといきなり藤本君がパッと立ってね、編集者が持ってたその原稿を取り上げて「もう帰ろう!」って言ってそのまま出ていったのよ。編集者も「アリャ~」ってびっくりしちゃって。僕は、これはまずいな~と思ってね「すいません!」って出てったらね、藤本君が「もうこういうのは嫌だから持ち込みは一切やめよう」って。僕もその方が楽だから「じゃあやめよう!やめよう!」ってね(笑)。
――藤本先生って、さっきの「お前、新聞社辞めろ」にしてもそうですけど、そういう意志決定はものすごく速いというか。
藤子Ⓐ うん、藤本君っていうのは非常に意志の強い人でね。僕はわりとグチャグチャっとしてるんだけど。藤本君はキチ~っと、こっちを採るってなったらバッとやる男だから。「(漫画家になるために)東京に行こう」って言ったのも彼だし、僕は彼の言うままになって動いてるだけだからね。
――でもたぶん藤本先生は安孫子先生のことを相当好きだったと思いますよ。
藤子Ⓐ うん、それはもちろんそうだったでしょう。だから二人でいるっていうのはすごく心強いことなの。もし一人だったらね、おそらく僕は諦めて富山に帰って、もう一回伯父さんに頼んで新聞社に入れてもらったりしてるかもしれない。でも二人でいると不思議な安心感があるんだよ。さっきの編集者だって「あんな奴に俺たちの漫画は分からないんだ」「そうだそうだ」なんて言ってると気持ちいいのね(笑)。それから石森氏も赤塚氏もまだ売れないてないしね、そういう彼らが周りにいると不思議な安心感と同時に、すごい楽しいっていうのかな? 映画を見に行ったり、そういうこと毎日のようにやってて。今思うと「金もなかったのに何で?」と思うけど、トキワ荘のその時期は自分の人生の中ですごく愉快な時期だったね。
――藤子Ⓐ先生は業界でも最年長でいらして、それこそ様々な「出会い」を経験してきたわけなんですけど、そこで僕たちもうひとつ、お伺いしたいのが、手塚先生、寺田先生、藤子・F・不二雄先生との「別れ」も体験してきているじゃないですか。そういう「別れ」について語れる今をどうお考えですか?
藤子Ⓐ うん、これはね、みんな不思議な縁で知り合って、それこそその後、ずぅっと付き合っていくわけなんだけど、僕らトキワ荘の連中とは一回もトラブルを起こしたことがない。トキワ荘というのは不思議なグループでね。たとえば石森氏が売れるじゃない。そうすると普通なら嫉妬するよ。ところが、きれいごとじゃなくてね、僕らみんなが「よかったなー」って思うんだ。そうすると、今度は逆に「俺たちも、もうちょっとやるか」といい意味での相乗効果っていうのがね、これは僕だけじゃなくてみんながそう。だから僕らがそれなりに漫画家となった頃でもみんな集まると昔に戻るという、非常にいい関係でね。
※10 トキワ荘 豊島区椎名町に存在したアパート。手塚治虫をはじめとして寺田ヒロオ、藤子不二雄、鈴木伸一、石森章太郎、赤塚不二夫、森安直哉、水野英子ら多くの漫画家が入居していた。
※11 鈴木伸一(一九三三〜) 漫画家、アニメーション作家。杉並アニメーションミュージアム館長。『ラーメンの小池さん』のモデルでもある。
※12 井上一雄(一九一四〜一九四九) 漫画家。戦後、野球漫画の先鞭をつける。代表作に『バット君』など。
※13 Saul Steinberg(一九一四〜一九九九) 漫画家、イラストレーター。ニューヨーカー誌などで活躍。
※14 つのだじろう(一九三六〜) 漫画家、心霊研究家。代表作に『空手バカ一代』、『恐怖新聞』、『うしろの百太郎』など。トキワ荘へはスクーターで通った。
『テラさんには足を向けて寝られない』
藤子Ⓐ テラさんは、自分が売れてたのにもかかわらず途中で漫画家を辞めたの。こんなこと信じられないでしょ? なぜかっていうと、ある雑誌の連載の中に自分が許せない漫画があったわけ。彼は学校の先生のような人だったから、子供に悪い影響を与えるような漫画、例えばピストル持ったり人を斬ったりする漫画は一切嫌いで。でもその漫画が人気ナンバーワンでね、テラさんが編集長に「この漫画を切ってくれ」と頼んだら、「いや、この雑誌はこの漫画で持ってるんですから」って言われて。そしたらテラさん「じゃあ、僕が辞めるよ」って言って、何誌かあった連載を全部辞めちゃった。こういうこと、なかなか言えないじゃない。でも本当に辞めちゃったから大変な人なんだよね。
当時三千五百円の家賃なんかも僕らや石森氏も赤塚氏もみんなテラさんに借りてるんだ。僕ら「寺田バンク」って言ってね(笑)。でも、テラさんだってそんなに稼いでるわけじゃないの。それなのに貸してくれてね、これは本当に感謝するよ。もしテラさんがいなかったら僕らみんなやってこれなかったよ。赤塚氏が一時期少女漫画ばっかり描いてて、ギャグが描きたいたいのに描けなくて、ある日「漫画家辞めてキャバレーのボーイやるよ」って言いだしてね、でテラさんのところに相談しに行ったのよ。そしたらテラさんが机の引き出しから当時のお金で四万円出して「赤塚君、これがある間トキワ荘で漫画描きなさい。もしこれがなくなって芽が出なかったら、その時は辞めてもいい」って言って、赤塚氏はその四万円をもらって。それから二ヶ月経ったある時、とある漫画家が〆切をすっぽかしたわけ。そうすると誰かが代わりに穴埋めを描かなきゃいけなくて、その話が赤塚氏に回されたんだ。穴埋めだから何を描いてもいいってんで、ギャグ漫画描いたの。『ナマちゃん』っていう漫画なんだけど、そしたらこれが次から連載になっちゃった(笑)。それから二~三年で『おそ松くん』が出てガ~っと売れた。今でも赤塚氏は言うけど「あの時の四万円がなかったら今頃はキャバレー王になってるところだった」って(笑)。僕たち、テラさんには足を向けて寝られないよね。
――藤本先生も安孫子先生も手塚治虫の模倣から漫画の世界に入ったわけなんですけど、そのうちに「藤子不二雄」としてのオリジナリティーを出さなくては、ということをお二人で話し合ったりはしたんですか?
藤子Ⓐ いや、特別に話はしないけど、なんか二人ともそういう風に思ったんだよね。二人ともSF的な物が好きで手塚先生のあとを追っかけたんだけど、結局このままいくら行っても手塚先生の前に行くことができないから。それで自分達でやってて面白いものを描こうじゃないかというんで、切り替えていったかな。『オバケのQ太郎』なんかもそうなんだけど、空想なんだけど現実的な、例えば空を飛ぶにしても一万メートル上を飛ぶんじゃなくて屋根の上すれすれを飛ぶくらいのね、実感のある夢を描いたら面白いんじゃないかと思って漫画を描いていったね。
――その後、藤本先生と分けて描くようになったのも、なんとなくですか?
藤子Ⓐ それもね、どうしようということを何も考えたことはないよ。一緒にやる時もなんとなくやってて、初め一本か二本は「安孫子素雄・藤本弘」連名で描いてたんだけど。藤子不二雄名義で描いた合作は初期の頃で。自然に別々になったね。別れる時だってそうよ。ずっと別々に仕事してたんだけど藤本君が入院して、藤子スタジオのスタッフ全員面倒見なきゃいけなくなって「こりゃ、えらいこっちゃな〜」と(笑)。確かに僕もね、漫画の方向性も変わってきたし、もちろん読者は(二人で別々に描いていることを)知ってるわけだけども、いくら藤子不二雄でも一方では『ドラえもん』描いてるのに、こっちではトンデモナイ漫画をね、ある意味でもっと飛んだのを描こうと思ってたけど(笑)。そうすると、藤本君に傷をつけちゃうから描かなかったんだよ。別れたのは五十三歳の時だったんだけど、だいたい漫画家は五十歳超したらアウトだと思ってたから、あと二年くらいは好きなことやったらいいんじゃないかと思ってね。でも結果的にこの独立が彼にとっても僕にとっても非常にいい転機になってよかったんだよね。
――『まんが道』は、今なお続く大変な連載になっているわけなんですが、このあとスタジオゼロ(※16)の時代までの構想はあったりするんですか?
藤子Ⓐ まあね、ゼロまでいく前には(僕は)死んでしまうから(笑)。
――いやいや、漫画が現在に追いつくまで描いて頂かないと!
藤子Ⓐ まあ、そうなんだけど(笑)。でもやっぱりね、トキワ荘はもうそろそろ終わりが近いんだよ。先月号でテラさんはトキワ荘を出たんでね。だからトキワ荘を出たら僕らの青春はひとつの区切り、なんでね。正直、非常に悩んでるところなんだよ。どうしたもんかな〜と。確かにテラさんがいなくなるとちょっとこうね……。
――大黒柱が……。
藤子Ⓐ うん。今、テラさんの結婚式を描いているんだけども、描いてると何十年前がそのまま、よみがえってくるというかね。
――本当に僕たちファンはいつも心待ちにしてます。ところで若い漫画家さんにも『まんが道』を読まれた方っていうのは多いんですか?
藤子Ⓐ これがものすごく多い(笑)。『ONE PEACE』の尾田栄一郎さん(※15)とこの前、対談したの。そうしたら『まんが道』や『ハットリくん』を読んで漫画家を目指したんだって。それから『BECK』のハロルド作石さん(※16)も対談したんだけど、僕よりも『まんが道』に詳しい!(笑) だから君たちもそうだけど、若い人たちがこうやって僕みたいな老人に話を聞きに来てくれるのは嬉しいよね。
――とんでもないです! もう子々孫々語り継いでいきますから!
※15 尾田栄一郎(一九七五〜) 漫画家。代表作に『ONE PEACE』など。
※16 ハロルド作石(一九六九〜) 漫画家。代表作に『ゴリラーマン』、『ストッパー毒島』、『BECK』など。
『Ⓐの人生』
藤子Ⓐ 僕にとって漫画家っていうのはやりたくてやってる仕事だからね。この世界でやり続けて五十年超してるわけだからね。それでもまだかろうじて現役っていうのがね、自分でもびっくりするんだ。だって僕より年上で現役は水木先生(※17)だけだけど、現役で連載を持ってるっていうのは恐らく昭和二十年代では僕一人。そういう意味では非常に変な嬉しさがあるね。
――大御所ですよ。
藤子Ⓐ いやいや、一応みんなよりは歳は上だけど(笑)。仕事でもそうだけど僕らの頃はね、もうすごかった。スタジオゼロの頃なんかね、週刊二本と、月刊四本くらいやってたかな。毎日毎日原稿渡してて、もうアイデアなんて考えてる暇ないんだよ。それこそ一コマ目から直接描いてくようなことやってたんだけど、嘘でもなくこれだけは僕、自慢なんだけど、今七十二歳なんだけど、風邪ひとつひいたことがないんだよ。
――ええっ!?
藤子Ⓐ 頭痛になったこともない。
――はぁ~! すごい……。
藤子Ⓐ せいぜい歯の治療くらいで、医者へほとんど行ったことがない。これはなぜかというとね、自分で言うのもなんだけど、気持ちがわりと穏やかなんだ、と思う。僕はいつも楽しいことばっかり考えてる(笑)。そうすると気から身体にいい影響があるんだと思う。だから君たちもね、嫌な事は考えないようにして(笑)。
――「明日にのばせることを今日するな」と。
藤子Ⓐ そうそう。戦争してた頃は「今日できることは今日やれ」と教わってきたんだけど、戦争が終わってアメリカの映画を見てたら、それとは反対に「明日にのばせることは今日するな」と言うの。「おっ! なるほど、この考え方はアメリカと日本の違いだな。余裕だなぁ」と思って、それからはそっちにチェンジして「今日渡せない原稿は明日にしてください」って(笑)。まあ、それはたいしたことじゃないんだけど、あれ以来何十年、藤本君と約束してから一回も原稿を落としたことがないのが僕らの自慢でね。
だからそういう色んな事がひとつの刺激になってね、いい効果を生むんだ。人間の生き方っていうのは、自分一人だけではいられないわけで、そこにいろんな事をなるべくいいように、いいように持ってくることがすごく大事。運っていうものには逆らえないわけだからね。さっきの牧野さんの原稿を落としてから一切講談社からの仕事がなかったんだけど、それから何年か経ってある時、いきなり小学館の編集長が来て「『週刊少年サンデー』っていう週刊誌を出すから連載描いてくれ」って言われてね。その時すでに月刊の連載をたくさん持ってたのよ。その上さらに週刊だから「考えさせてくれ」って言ったの。でも日本で初めての少年週刊誌だから、これは記録に残るなと思って、すぐ電話かけてOKしたの。そしたら次の日ですよ。牧野さんが来て、「うちでも『週刊少年マガジン』を創刊する。君たちを許すから描かせてやる」って。でも『サンデー』と『マガジン』両方受け持つわけにはいかないじゃない。だからまたひれ伏して「すいません、実は昨日『サンデー』受けたんですよ」って言ったら牧野さんがパ~ッと立って出ていって、今度こそ一生、何の連絡もなかった(笑)。
――うへぇ~っ!
『「個性」をもつということ』
――それでは最後になりますが、僕たち映像や写真を学校で学んでいるんですけど、ものを作る上で心がけていることなどがありましたら聞かせてもらえますか?
藤子Ⓐ 大事なのは対象に対する愛情度っていうのかな。画がきれいだから撮るんじゃなくて、それを自分がどういう風に楽しんで撮ろうかという。そういう「気持ち」って言うのはすごく大事なんじゃないかな。それと同時に、表現っていうものには「個性」があるんだから、特にカメラなんて誰が撮っても写ることは写るわけだから、そこからいかに「個性」を出していくかっていうことが大事なんだね。ある時、手塚先生の所に行って初めて構図にびっくりしたことがあってね、少年が立ってる一枚のイラストを見せてもらったわけ。それが下からあおってる絵で、靴の底が見えてるの。こういうアングルの構図に僕も藤本君もびっくりしてね、手塚先生が「それ、楳図かずお(※18)っていう子が描いたんだよ」って。
――おお〜っ!
藤子Ⓐ そういうまったく予想もしない構図とか表現力とかって言うのは、その人の持ってる独自性っていうのが非常に大きいわけだからね。奇をてらうんじゃなくて「これが自分の表現だ!」っていうのを持つというのがね、非常に大事じゃないかなって僕は思うんだよね。あなたたちがクリエイティブな仕事に関わっていくのに僕からひと言だけ言わせてもらうと、自分だけの表現、自分だけの創造性っていうものを自分の中の芯にして、それにバラエティーをつけながらそのひとつの芯を大事にして頑張ってください。
※17 水木しげる(一九二二〜) 漫画家。代表作に『ゲゲゲの鬼太郎』、『悪魔くん』、『河童の三平』、など。
※18 楳図かずお(一九三六〜) 漫画家。代表作に『まことちゃん』、『漂流教室』、『わたしは慎吾』、『14歳』など。
インタビューを終えて
幼い時、藤子不二雄が実は二人組のコンビで、実は別々に漫画を描いていたということを知った時、とても驚いた。僕はてっきり、藤子不二雄は一人の人物だと当たり前のように思い込んでいたからだ。そういっても全く違和感がなかった。
そのお二人がコンビを解消したのは、一九八七年。あれから二十年近くの月日が流れた。今日、安孫子先生に藤本先生のことを語って頂いてその言葉の端々から、今なお、お二人は強い絆で結ばれているんだなぁ……と深い愛情のようなものを伺い知ることができた。
漫画を描くということは、ひたすら自分と向き合う孤独な作業である。だからこそ、漫画家は仲間の大切さを誰よりも知っている。激動の「まんが道」だけど、現在もⒶ先生は決して一人で歩んでいるわけじゃない……とそんな気がした。もしも、友情というものがあるとするなら、ひとつの到達点がそこにあるような気がして、得体のしれない感動を覚えながら僕は西新宿をあとにした。
(構成 高橋浄久)
藤子不二雄Ⓐ(ふじこ ふじおエー)
一九三四年生まれ。富山県氷見市出身。小学校で藤子・F・不二雄(藤本弘)氏と出会い、以来漫画の合作を始める。(その後の道のりは、自伝的作品『まんが道』に描かれているので、未見の読者は是非ご一読を!)現在、まんが道の続編である『愛…知りそめし頃に…』を『ビックコミックオリジナル増刊号』にて連載中。