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何やらちょっと面倒な、名字の件(中編)

前編からの続き。(前編はコチラ↓)

書いていたら長くなったので、中編と後編にわけることにしました。

今回は、名字の歴史。



いやー、調べてみたら奥深い。
名字の付け方、名字というもののポジション、血縁や婚姻と名字の関係など、時代によって違うのです。

①     名字誕生

遡ること奈良時代。
使われていたのは「氏(うじ)=血族集団を表す名称」、「姓(かばね)=古代の大王が氏族に与えた称号」。
※前者例:中臣氏、物部氏。後者例:巨(おみ)、国造(くにのみやつこ)

氏は、地名や職能を明示したものが多くみられたそうで、これはなかなかに興味深い。

たとえば、中臣氏は、神と人間との間に立って、祭祀を司っていた。
忌部氏は身を浄めて神に奉仕した。
物部氏の「モノノベ」の語源はモノノケ(物ノ化)であり、モノ(武器)を持って物の怪などを討つのが一族としての職能だった。
(中略)
服部(はとりべ)氏=衣服の製作、錦織(にしごり)氏=錦の製作、弓削(ゆげ)氏=弓矢の製作……これらは氏名を見ただけでその職能がわかる。

(引用:『名字の歴史学』奥富敬之 角川選書)

平安時代の後期、有力な一族の名が増えすぎたため、現代でいう「名字」が誕生したのでした。もっと細かく分けなければ、個人を特定できなくなってきたんですね。

②     名字は特権

鎌倉時代、名字がもらえたのは公家や武士だけ。名字は特権階級の証。
農民の名字は幕府が禁じていたのです。
けれども、室町時代に一揆などで農民が強くなると、名字を名乗る農民が現われる。
が、さらに安土桃山時代。秀吉が太閤検地や刀狩りをして再び、公家・武士と農民はハッキリと身分を区別されるようになり、庶民は名字を名乗ることが憚られるようになった。

なお、公家の名字は住んでいる地名から。
武家の名字は本領の地名。
住んでいるかどうかではなく、そこから経済的な収益と軍事力を得ているかがポイントになっていました。
武家は、この本領地を「名字ノ地」=「一所懸命の地」と呼び、命がけで守ろうとしたのです。

「名前=命がけで守るべき土地」だから、かなり重いですよね

歴史上、名字はステイタスだったわけで。これは江戸時代まで続きます。

ちなみに…

徳川家康の本名、皆さまご存知ですか?
徳川家康は家康だろう!竹千代か?それは幼名だ!というところですが……
答えは。

徳川 次郎三郎 源 朝臣 家康

長っ。

徳川=名字 次郎三郎=字(あざな:個人の通称) 源=氏 朝臣=姓 家康=諱(いみな=本名)

だそうで。ちなみに「次郎三郎」は、「親が次男、本人は三男」ということだそうな。
(このシステムだと我が弟は「太郎太郎」になってしまう)

時代を遡って、平安末期から鎌倉初期。当時活躍した武将・熊谷直実の正式な名乗りはこちら。

熊谷郷司平次郎直実

熊谷は名字、熊谷郷が地名、郷司が職名、平は姓名、次郎は仮名、直実は実名、直は通字
(「仮名(けみょう)」は兄弟での出生の順序を表す)

パーツの呼び名も、組み合わせも、時代によって変遷がありますねえ。


③     明治維新により国民を「家」単位で把握するしくみを導入


明治4年(1871年)に戸籍法が制定され、「家」単位で国民を把握することに。(それまでは、お寺が役所のような役割を担い、檀家の管理として村・町の住民を把握していた)
ちなみに「家」単位っていうのは、武士の家父長制が元なわけですね。
「家名・家の財産・家業は世代を超えて継承されるべきであり、家長がその代表であり、男性が務めるべし」という考え方。
また、この頃に氏や姓が廃止されて名字だけになったり、複数の名前を名乗ることが禁止されたり。(徳川次郎三郎源朝臣家康→徳川家康ってこと)

「名字=個人の認識」が目的なので、名字を安易に変えられなくなったり。「夫婦は同じ氏を名乗るべし」というのも、明治の民法で定められたことのひとつでした。

そういえば、この「夫婦が同じ姓」も、時代が変われば形が変わる。

平安時代には、結婚すると男は妻の家に住むのが通常だった。
したがって父と子が別々に住むということになり「称号」も父と子が別々となることも多い。
※「称号」=藤原一族の氏人たちが互いを区別するために、その住邸の所在地の地名によって呼び合うようになった名。敬意を表す意味もあり、所在地の地名に「殿」をつける(例:冷泉殿、宇治殿、鳥羽殿、伏見殿…)

同一人物でも、住所が変われば「称号」も変わる。摂関家初代の良房は、最初は「白河殿」だったが、晩年には「染殿」になっている。
(中略)
平安末期から鎌倉初期にかけて母系制から父系制に移行し、夫が妻を訪問する妻問近から夫が父の邸を相続し、そこに妻を迎え入れる妻取婚へと大きくかわる。
その結果、いままで父子別々だった「称号」が、父、子、孫、曾孫と代々受け継がれることになる。こうして「称号」は、個人のものではなく、一定の家系の呼称になっていく。

(引用:『名字の歴史学』奥富敬之 角川選書)


④第二次世界大戦後、戸籍は「家」単位の管理から
 「夫婦・親子」単位の管理に


個人の尊厳と両性の本質的平等という精神のもと、家制度が廃止され、戸籍は「夫婦」「親子」単位に。
けれど、同氏同戸籍の原則や女性のみ再婚禁止期間があるという制度は残りましたた。
※女性の再婚禁止期間は令和4年に廃止されました!施行は令和6年から。
 詳しくはコチラ↓

https://www.moj.go.jp/MINJI/minji07_00315.html

「家制度」を調べると、現代人としてはかなり仰天することがあります。
たとえば
・妻には子どもの親権がない
・妻は厳格な貞操義務があるため妻が不貞したら即離婚。夫の不貞は相手の夫の告訴がなければおとがめなし
・妻は「無能力者」と位置付けられ、夫の許可がないと働けない、土地の売買や借金契約などができない

「む・の・う・りょ・く・しゃ」……!


言葉のインパクトが強すぎてひっくり返りそうだけど、意味合いは「行為能力(契約などの法律行為を単独で行える能力)が制限されるもの」ということだそう。
(現代でもこれはあって、未成年者や精神に障害のある方は保護の観点から当てはまっている)

こうやって書くと、「男性優遇!」って見えるかもしれないけれど、家長は家長でなかなか辛いのよね。
・家族の扶養義務、家を維持存続させる義務がある
・家族の婚姻や養子縁組への同意権、家族の居住地を指定する権利、家族から排除(勘当とか)する権利を持つ

なんだか権力を持ってそうにみえるけれど、いやいやいや、「家を絶やさない・発展させる」が務めだから、重たいですよね。
戦前は、家の長男として生まれた時点で、家長となる宿命だったから、生まれた時点で人生が決まっちゃう。(実際の法律では長男でなくてOK、女性OK、養子OKだったけれど、慣習的には長男だった)

さらに言うなら、これ、令和の今もまだまだ続いているという無自覚の風習。
男も女も、それぞれに辛さがありますね……。

ということで、後編へ続く。

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