情報は、探すより、集まって来る時代 ~ キリスト者の考察 ~
今日、ある牧師さんと、いろいろ話す機会がありました。伝道について、「こちらが伝道するので、聞いてくださいと押していくと、今の時代は、人々は引いていってしまう。そうではなく、相手が聞いてきて、それに答える、引き出すような伝道が必要だ。」との内容になりました。
私も、同じことを考えています。教会では、バイブル・カフェというものをしていますが、人々が来て、それで普通に会話しています。相手が興味をもって話していることに応じる形で、キリスト教について、福音について、どのように自分がキリスト信仰を抱くようになったかについて、お話しします。
私がイメージとして抱いているのが、「検索」から「情報引き寄せ」という傾向です。以前は、情報を得るためには、自分が検索をするのですが、今は、SNSで、フォローやいいねを押すと、自然に、自分に有益な情報が、自分に集まってくるようになっています。
その良し悪しは横に置いておいて、キリスト者の生活、その証しにも、同じことが言えるのではないか?と思いました。それは、キリスト者として生活し、自分に与えられた召しと賜物が確かであれば、人々のほうから、自分を通して、心の渇きを感じて、それで尋ねに来る、というものです。
今、自分の事を思うと、海外宣教において、若者から聖書を教えてほしいと頼まれて、それで教えていたと思います。そして今、教会の牧者として、相手を回心させようとか力まなくとも、むしろ、キリスト者として生きることに集中していれば、自ずと、人々のほうから聞いてきて、イエス様のことを話すようになっていることのほうが、ずっと多くなりました。
そこに必要なのは、相手への敬いです、尊重です。「Ⅰペテ3:15-16 むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。」
一方的に、イエス・キリストを伝えたところで、相手は自分を守るために身構えます。けれども、相手を敬うことによって、その身構えがなくなり、人々の方からご自身の心の渇きを分かち合ってくださいます。そして、キリスト者のうちにある希望について説明を求めてくるのです。