南からの贈り物9 オキナワチドリ
隆起サンゴ礁の岸に、春の波が寄せては返す。ことのほか日差しは強く、きらきらと海面が光り輝いている。ふとその先に目をやると、小さな舟が通り過ぎて行くところだった。
夏には、そのサンゴ礁の天然のプールが少年たちの格好の遊び場となる。他には、春や秋の大潮の頃に屋久島では磯もん採りと呼ばれる貝採りの大人達が訪れるくらいで、普段は静かな海岸であった。その静かな海岸に、夫と私はよく町への買い出しのついでに立ち寄り、そこでお昼にした。
隆起サンゴ礁の海岸の続きには、天然の芝地が広がっていた。その芝の中に、毎年春に楽しみにしているオキナワチドリという蘭が咲いた。
草丈が低いので、身を屈めて芝を掻き分け探して行く。
ピンクの丸い蕾が開くと、まるで手足を広げた人形のような愛らしい花が咲いた。その可愛らしいピンクの花には濃い紅色のそばかすのような点々があった。その花によってピンクの濃いもの、白っぽいものの差はあるが、咲き始めが一番鮮やかで美しかった。
オキナワチドリの花の期間は比較的長い。その前後には、リンドウの仲間の、小さな小さなリュウキュウコケリンドウも一緒に見ることが出来る。
淡く儚い水色で、こちらは本当に小さく花は米粒くらいだ。曇りの日には花を閉じていたりする。踏みつけないように注意して楽しむ。
オキナワチドリの花の盛りが過ぎてしばらくすると、今度はシマセンブリというこれまた小さな花が咲く。こちらは赤紫色で、やはりリンドウの仲間でセンブリと名前は付くものの、センブリとは異なる、また違った趣のある魅力的な花である。これも昼頃に晴れてくれないと花は開かない。
これらの小さな草丈の花達はなかなか貴重な植物で、掻き分けた芝の中に、またひっそりとその花達を埋もれるように隠し、どうぞいつまでもこの地で花を咲かせ続けますようにと、願わずにはいられないのだった。
だが貴重だからという理由だけでなく、こういう草丈の小さな花には、その小ささゆえに、樹に咲く花などとはまた違う、花に対する愛しさのようなものがこみ上げて来る。
それらの花の記憶を辿っていたら、亡くなった母の幼い頃の話に思いが重なった。
「母ちゃん、行って来るね」母は、私の祖母に当たる、染物屋の女房であった忙しい母親の背中に毎朝そう言って幼稚園に出かけたそうである。小学校の入学式の日に母親を亡くした、母の幼い頃の思い出だ。
小学校の入学式の日に母親を亡くすなどとは、なんと言うことだろう。が、母には姉達がたくさんいて、姉達に守られて母は幸せだった。それから母は姉達と、幾度母親の命日を迎えたことだろう。
そして私も今年、そんな母の三回忌を迎えた。九十一歳になる、一番上の母の姉、私の伯母が、母にとチョコレートを買ってくれた。その伯母は、母親が亡くなった時には、末の妹である私の母の言うことを何でも聞いてあげようと思ったそうなのである。母親を亡くしたけなげな姉妹達は、オキナワチドリやリュウキュウコケリンドウやシマセンブリのようにいじらしい。
母の忌や草に埋まる春の蘭 清子
今、指宿に住んで、屋久島には高速艇で行くことが出来るが、夫はもう屋久島を訪れることは無いだろうと言っている。その名の示す通り自生地の限られた、オキナワチドリやリュウキュウコケリンドウやシマセンブリにも会うことは無いかもしれない。幼い姉妹達の遠い幻を添えて、その花達の記憶をまたそっと心の奥に納めた。
(『南からの贈り物9 オキナワチドリ、
2017年5月5日発行、
季刊俳句同人誌「晶」20号に掲載)
後記)
先日、福岡アジア美術館である公募展に絵を出展した。祖父母、父母の故郷の福岡に私の絵を出して、ご先祖さまに絵を描いていますよと報告したい気持ちからだった。父は文章を書くのが好きだったが、母が遺した自筆のものと言ったら家計簿くらい。が、その母から私が引き継いだものがあるとしたら、やはり色を扱うことだろう。染物屋の末の娘の母は、その父、つまり私の祖父譲りなのだろう。刺繍、編み物、パッチワーク、洋裁などなど、器用な手を持ちそして色を扱うことをずっとしていた。
福岡アジア美術館に来てくれた従兄弟が私の絵を見て言った。「おいしゃんの型染めの色のようだ」と。おいしゃんとは母の兄、染物屋を継いだ私達の伯父のことだ。私は嬉しかった。
福岡から帰って来て、私はすぐにまた絵を描き、今度は鹿児島は奄美大島に絵を送った。送り先は田中一村記念美術館。企画展で審査があるので、すぐに戻って来てしまう可能性もある。それでもいいと私は思った。屋久島に引っ越すのを決める前に、夫と二人訪れた奄美大島。屋久島と同じ鹿児島の離島。オキナワチドリも咲くであろう奄美大島。とここまで書いてハッと思い出した。奄美大島の海岸でオキナワチドリの花を見たよ、確か。忘れていた記憶の欠片が繋がって行く。オキナワチドリの花の精に呼ばれたのかもしれないね。